岸田文雄・首相が率いる「宏池会」(岸田派)は、自民党の保守本流と呼ばれる。それを創設したのが、日本を「経済大国」へと押し上げた池田勇人・元総理大臣だ。当時、池田派を支えたのは頭脳派のブレーンたちだった。所得倍増計画を実現した“最強政策集団”の実像を探る。【前後編の後編。前編から読む】(文中一部敬称略)
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池田政権で宏池会は日本を経済大国へと押し上げる政策を次々に生み出していった。
それを陰で支えたのが、池田の大蔵省時代の同期で、宏池会事務局長を務めた田村敏雄だった。戦後日本の政党政治を専門とする福永文夫・獨協大学教授が語る。
「田村を中心としたメンバーは宏池会で毎週定期的に政策研究会を開き、特に経済と外交分野の重点的な調査活動を展開した。その研究成果を派閥の機関誌『進路』に掲載して、所属議員だけでなく実業界、官界の協力者に配布した。これぞまさに政策集団のあり方でしょう」
池田内閣の代名詞となった「所得倍増計画」もそうした政策研究から生まれた。理論づけたのは池田の経済ブレーンで、日銀政策委員や日本経済研究所会長を務めたエコノミスト・下村治を中心とする研究会であり、前述の宏池会機関誌『進路』には池田が首相に就任する前の1960年3月から「所得倍増実現の可能性を探る」という論文が連載されている。
「所得倍増の政策は下村治など宏池会のブレーンによって研究されたが、下村本人と大平正芳は池田の先見の明を評価しています。所得倍増の枠組みの基本となっているのは全国総合開発計画であり、池田はさらに農業基本法の制定や高等専門学校の制度の創立も実現した。池田がなぜ、早期に先進的な政策を打ち出せたのかは今後の研究課題であるが、その政策立案に宏池会の存在が欠かせなかったのは間違いない」(同前)
経済界では、当時「財界四天王」と呼ばれた小林中・日本開発銀行初代総裁、日本商工会議所会頭の永野重雄・富士製鉄社長、日経連会長の桜田武・日清紡績社長、経済同友会幹事の水野成夫・産経新聞社長らが池田を強力にバックアップし、財界主流企業が宏池会を資金面、政策面で支援する関係ができた。
池田の番記者を務めた山岸一平・元日本経済新聞専務は、池田と財界人の付き合いをこう語る。
「池田さんは夜の会合ではもっぱら財界人と飯を食った。財界四天王をはじめ、京都大学の同窓だった野村證券の奥村綱雄社長とは特に懇意で、首相に就任した翌年の1961年は正月を熱海の野村別邸(野村證券の保養所)で過ごした。番記者だった私も同行して近くの旅館に宿を取ったが、池田さんは正月三が日を奥村社長と一緒に過ごした。今なら問題になるかもしれないが、そんな付き合いで民間の経営者から生の経済を学んでいたわけです」