安倍晋三・元首相の国葬について多くの国民から反発の声があがっている。この問題について僧侶の玄侑宗久氏(66)に意見を聞いた。
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安倍元首相の葬儀は7月12日に増上寺(東京・芝公園)で済んでおり、浄土宗の戒名(紫雲院殿政譽清浄晋寿大居士)も戴いている。つまり仏教のお弔いは済んでおり、国葬を執り行なうと言われても、僧侶である私は「イメージが湧かない」というのが率直な感想だ。
仏教の世界では、近親者のみで執り行なう「密葬」、大勢の参列者を受け入れる「本葬」がある。増上寺での葬儀が密葬であれば、その後の本葬はあり得るだろう。しかし、増上寺には集まれる限りの人が駆け付けて弔問を済ませており、これは本葬と考えるべきものだ。
本葬の後で儀式をやるとなれば、宗教抜きのお別れの会が一般的。実際、予定されている国葬は無宗教なので、国家予算を使って“国葬という名のお別れの会”をやるという感じなのだろうか。
また、国葬という言葉は、国民の多くが悲しみを共にするという意味合いを想起させる。ところが今回は野党側から「弔意の強制になる」と責められると、岸田首相は「弔意の表明は強制しない。喪に服することも求めない」と回答した。
国家の儀式として行なう「国葬」であれば、予算は全面的に税金から出してもやむを得ないというもの。しかし、野党に批判されたとはいえ、「弔意の表明や黙祷なども求めない国葬」となると、いったい何のための「国葬」かと思わざるを得ない。
自民党が「関係を断つ」とまで言っている旧統一教会系団体と深く関係していた安倍氏を、国を挙げての葬儀にするという点にも矛盾を感じる。
振り返れば、岸田首相が国葬を早々に閣議で決定した時も、(法令上の根拠がなくても政策を決めることができる)閣議決定を最大限に利用するのが、安倍さん以来の自民党政権の伝統のようなものかと思わされた。
今からでも、「閣議決定で国葬を決めたことは勇み足だった」と謝って、佐藤栄作元首相の時の国民葬や、中曽根元首相らと同じ合同葬などとして執り行なえばいい。
「国民に喪に服するなどのご迷惑はおかけしません。勝手にやるけれども、予算だけはいただきます」──そんな国葬の前例は作るべきではないと思う。
※週刊ポスト2022年9月30日号