ハッチの冒険に涙し、ドロンボー一味との戦いに笑った──。これらのアニメは、今年創立60周年を迎えるタツノコプロが制作した。タツノコプロの歴史を追う。【前後編の前編】
創業者・吉田竜夫の挑戦とこだわり
タツノコプロ(旧・竜の子プロダクション)は、漫画家の故・吉田竜夫さんが1962年に設立したアニメ制作会社だ。第1作の『宇宙エース』(1965年)以降、『ハクション大魔王』(1969年)、『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年)、『ヤッターマン』(1977年)など、多くの作品を輩出し、日本アニメの黎明期を支えた。一体どんな会社なのか。
「漫画などの原作をもとにしないオリジナルアニメを得意とし、ほかのアニメ制作会社ではやらないような挑戦をする会社でした。たとえば『ガッチャマン』では、顔を覆うヘルメットのバイザー部分に白いテカリを入れて質感を出し、リアルさを追求したり、爆発シーンでは実際の煙の映像とアニメを合成していました」
と、アニメ評論家の藤津亮太さんは言う。そして、同社に所属していたスタッフは、次世代を担うクリエーターとして活躍していく。映画監督の押井守さん、イラストレーターの天野喜孝さん、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の作者・秋本治さんなどだ。
タツノコプロはその後のアニメ界に大きな影響力を与え、いまなお、挑戦を続けている。
反対したら逆効果! 頑固一徹の創立秘話
タツノコプロの初期メンバーのひとりであり、現在は同社の顧問を務めるアニメ監督の笹川ひろしさん(86才)に、タツノコプロが誕生したきっかけをうかがった。
「当時ぼくは26才で漫画家でした。1年半くらい手塚治虫先生のアシスタントをやって独立したところでした」(笹川さん・以下同)
初代社長の吉田竜夫さんも当時は漫画家で、担当の漫画編集者の紹介で2人は知り合ったという。
「この頃徐々に少年雑誌が休刊になり、漫画家の道に行き詰まりを感じていたんですよね。そんなとき、手塚先生がアニメ制作に乗り出し、竜夫さんまで、“アニメをやりたいね”って言い出して……。でも、ぼくはあまり乗り気じゃなかった。だから、手塚先生のところで聞いたアニメ制作の苦労話をして大変さを訴えたの。ところが、竜夫さんは頑固だから、むしろそれで“やる”ってなっちゃった。ぼくが余計なことを言ったばかりに(笑い)」
こうして、1962年に漫画制作工房として誕生した竜の子プロダクション(タツノコプロ)は、アニメ制作にも乗り出し、笹川さんは竜夫さんの熱意に負けて参加することになったのだ。
ちょうどこのとき、東映動画(現・東映アニメーション)との合作アニメの企画が持ち上がる。そのため、東映動画のアニメ養成所で3か月ほど学ばせてもらえることに。ところが、いよいよアニメ制作に向けて動き出す──というところで、権利関係で意見が割れ、東映動画とは物別れに終わった。
「初めから波瀾万丈だったよね。それでも竜夫さんは、途中まで進めていたキャラクター設定や脚本をもとに、“絶対にやるんだ”って、東京の国分寺に土地を買ってそこをスタジオにして、新聞に募集広告を出して人を集めて……。いやあ、よくやったと思いますよ」
当時のアニメ制作には、途方もない手間と時間がかかった。人手が足りなくて、近所の人に声をかけて内職を頼んだこともある。こうして1965年に完成したのが『宇宙エース』だ。創立から3年が経っていた。
「1話目の放送時にはスポンサーがいなくて、CMがなかったの(笑い)。いまじゃありえないでしょ。3話目くらいからかな、スポンサーがついたのは。うれしかったなあ」