【書評】『水平線』/滝口悠生・著/新潮社/2750円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
滝口悠生は、私が最も信頼している語り手の一人だ。時間の概念と記憶の不確かな関係を描かせたら、右に出るものはそうそういないと思う。『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』然り、『茄子の輝き』然り、すべては記憶という無時間の中にしか存在しないのではないかと思えてくる。
硫黄島と父島と東京都内を舞台にした最新長編『水平線』では、語りは数十人の視点人物の間を行き来する。記憶を過去、現在、未来と色々な地点から眺め、記憶というものはどこかからどこかへ線状に伸びているものではないし、その中では自分と他人の境目も曖昧なものだと感じさせる。そう、生者と死者の境い目さえも。その意味では、芥川賞受賞作の『死んでいない者』に繋がる作品と言えるだろう。
かつて硫黄島で農業や漁業、あるいは砂糖小屋を営んでいた人たちの多くは、戦争で強制疎開させられ、父島や本島の東京で生活を始めた。島に残ったのは、軍属として働く男性たちだった──。
主な登場人物の中には、三十八歳のフリーライター横多平と、妹でパン屋店長の三森来未がいる。平の元には半世紀余前に蒸発した大叔母から手紙が届き、来未の元には硫黄島で亡くなったはずの大叔父から電話がある。さらに、この兄妹はメールや電話をしあっているのに、どうも同じ世界線にはいないようなのだ。キーワードの一つは「オリンピック」。
平は大叔母のメールに誘われて父島へと発ち、船中、祖父母たちと夢で出会う。島に着いてベッドに寝れば、島民が感じただろう飛弾の衝撃を背中に感じる。来未には、今は自衛隊管理の航空基地になっている硫黄島へ「墓参り」に行った十数年前の思い出が深く根づいている。時空間の縛りは解け、生者と死者の記憶と思いは融けあいだす。三人称文体はいつしか一人称になり、その逆もある。
滝口悠生の語りはこんなふうに非常に油断がならない。しかしだからこそ、そこに真実があり、最高に信頼できるのだ!
※週刊ポスト2022年9月30日号