総理大臣の評価は演説の上手下手で決まるものではないが、心のこもった言葉の力が国民を動かし、難局を乗り切るきっかけになることは少なくない。安倍晋三・元首相の国葬での岸田文雄・首相の弔辞は、国葬の是非をめぐって生じた反対派と賛成派の衝突、エスカレートする国民の分裂を言葉の力で歩み寄りに向かわせる絶好の舞台ではなかったか。
だが、首相の弔辞が国民の心に響いたとは思えない。
〈防衛庁を、独自の予算編成ができる防衛省に昇格させ、国民投票法を制定して、憲法改正に向けた、大きな橋を架けられました。教育基本法を、約60年ぶりに改めて、新しい、日本のアイデンティティの種をまきました〉
〈「二つの海の交わり」を説いたあなたは、さらに考えを深め、「自由で開かれたインド太平洋」という、たくさんの国、多くの人々を包摂する枠組みへと育てました。米国との関係を格段に強化し、日米の抑止力を飛躍的に強くした上に、年来の主張に基づき、インド、オーストラリアとの連携を充実させて、「クアッド」の枠組みをつくりました〉
首相が国葬決定の理由に挙げた安倍氏の“歴史に残る功績”をこれでもかと列挙する弔辞の言葉は、悲しいかな、国葬批判に対する自己弁護にしか聞こえなかった。そして弔辞の締めくくりに「勇とは義(ただ)しき事をなすことなり」という新渡戸稲造の言葉を引き、
〈あなたこそ、勇気の人でありました。一途な誠の人、熱い情けの人であって、友人をこよなく大切にし、昭恵夫人を深く愛したよき夫でもあったあなたのことを、わたくしはいつまでも懐かしく思い出すだろうと思います。そして、日本の、世界中の多くの人たちが、「安倍総理の頃」「安倍総理の時代」などと、あなたを懐かしむに違いありません〉
という言葉も、国葬会場の周辺で反対デモが起きていた現実の前には説得力を持たなかった。