追悼・アントニオ猪木さん 秘蔵写真で振り返る稀代のヒーローが歩んだ道のり
アントニオ猪木さんの秘蔵写真で振り返る(写真/木村盛綱)
1998年4月、東京ドーム大会で現役を引退。7万人のファンが最後の「闘魂」を見届けた。その後、2013年に18年ぶりの国政復帰を果たす(写真/山内猛)
新日本プロレス旗揚げ前の1970年、日本プロレス時代の河口湖合宿。当時27歳で馬場に次ぐ第2のエース格だった猪木だが、翌年に日プロ追放の憂き目に遭う(写真/木村盛綱)
1971年に女優・倍賞美津子と婚約。同年3月、羽田空港の特別室で会見した。当時、松竹の看板女優だった倍賞は猪木を上回る知名度を誇った(写真/木村盛綱)
1973年、日本プロレスを退団した元柔道日本王者の坂口征二が旗揚げ間もない新日本プロレスに合流。テレビ中継がスタートし、猪木とのタッグは「黄金コンビ」と呼ばれた(写真/木村盛綱)
1976年6月、「格闘技世界一決定戦」と銘打ち、ボクシングの現役ヘビー級王者モハメド・アリと対戦。「世紀の凡戦」と酷評されたが、その後の猪木の人生を変える一戦となった(写真/木村盛綱)
1982年、ライバル全日本プロレスのジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、400勝投手の金田正一(野球解説者)と談笑。猪木の死去で全員が故人となった(写真/木村盛綱)
1983年6月、第1回IWGP決勝でハルク・ホーガンのアックスボンバーを受け衝撃の失神KO。「事件」として一般ニュースで報じられた(写真/木村盛綱)
1990年12月、国会議員としてイラクに乗り込み、湾岸戦争のあおりでイラクの人質となっていた邦人解放の道筋をつける。帰国した成田空港で、日本人家族がアントニオ猪木を中心に歓喜の“ダーッ!”を繰り返した(写真/共同通信社)
1995年、北朝鮮・平壌におけるプロレス興行「平和の祝典」で盟友モハメド・アリとともに。2人の交流は2016年にアリが死去するまで続いた(写真/山本晧一)
2020年、デビュー60周年記念大会に登場し、かつての弟子が集結。長州力にロックされた武藤敬司に「闘魂注入」の洗礼を浴びせる(写真/山内猛)