【書評】『世界は五反田から始まった』/星野博美・著/ゲンロン/1980円
【評者】与那原恵(ノンフィクションライター)
星野博美さんは東京都品川区の戸越銀座で生まれ、いまも暮らす。五反田に近いこの地域はかつて町工場がひしめいており、彼女の実家も祖父の量太郎さんが創業した町工場だが、廃業して久しい。
祖父は幼い星野さんにこんなことを言い含めていた。〈ここが焼け野っ原になったらな、すぐに戻ってくるんだぞ〉。家族のなかで一人でも生き残ったら、敷地の周りに杭を打ち、「ほしの」と書くんだ。当時はその言葉の意味がわからなかったが、やがて、祖父が生涯を閉じる直前まで書いていた手記を読み進めていった。
星野家三代が生きたこの土地は、第一次世界大戦時に一気に工業化を果たした日本の足跡を物語っている。五反田一帯に中核工場が進出するとともに、多数の下請け的な小工場が乱立し、地域的にも広がっていった。その様をリアルタイムで目撃したのが、大正五年、十三歳のとき千葉の漁師町から上京した量太郎さんで、丁稚奉公を経て、昭和十一年に戸越銀座に住居と工場をかまえた。
だが翌年に日中戦争が勃発。国家予算における軍事費が七割を占め、さらに伸びていくという時代だ。彼の工場も軍需工場の下請けをこなしていくが、二十年の大空襲ですべてを焼かれてしまう。それでも量太郎さんは工場の再建をやり遂げる。「杭を打て」の教えは、このときの体験に基づいていたのだった。
〈大正期から昭和初期にかけ、五反田界隈の工場地帯に集まった労働者の人生範囲〉を〈大五反田〉と命名した星野さんは、土地の記憶を掘り起こしていく。スペイン風邪の流行、無産者階級の活動、学徒動員、商店街の人々が満洲への転業開拓移住をした事実……。あまたの無念の死があった。
量太郎さんは、社会の同調圧力に屈せず、あらゆる事態を想定した準備を怠らないなど、生き残る術も書き残していた。さきごろ、目黒の権之助坂(大五反田域内)を下っていて、目にした電柱広告が本書のものだった。風雨に負けず立つ電柱が、ここで生きてやる!と宣言する杭にも見えた。
※週刊ポスト2022年10月28日号