歯に衣着せぬ物言いでお茶の間の人気を博し、「腹黒」というあだ名がすっかり定着していた三遊亭円楽さん(享年72)。しかしその「腹黒」の仮面の陰で解決の道筋をつけた、落語界が長年抱える問題に、再び火種がくすぶり出している。
市川海老蔵(44才)の十三代目市川團十郎白猿襲名披露公演が11〜12月に開催される。先代の團十郎さん(享年66)が、2013年に亡くなってから9年にわたって空位が続いていた成田屋の大名跡が、ついに継がれる。
歌舞伎同様、日本の伝統文化である落語界にも、名だたる噺家が継いできた大名跡がある。だが血縁が優先される歌舞伎とは異なり、誰でも襲名に名乗りを上げることができる落語では、襲名をめぐって泥沼の争いが繰り広げられることがある。なかでも落語界を二分する名跡騒動の解決のために奔走したのが、肺がんで9月30日に死去した三遊亭円楽さんだった──。
「残る時間を、落語と落語界のために使う」
晩年は度重なる病に苦しめられながら、繰り返しそう語っていた円楽さん。自らの理想を実現するため、2007年から「博多・天神落語まつり」のプロデュースを務めていた。
「現在の落語界は、落語協会、落語芸術協会、五代目圓楽一門会、立川流、上方落語協会の5派があります。通常は所属団体が違うと同じ高座に上がりませんが、円楽さんは『まとまることで生まれる魅力がたくさんある』と反対派を説得し、5派の人気噺家を福岡に集める“落語界のオールスター戦”を実現させました。同様の形で『さっぽろ落語まつり』『江戸東京落語まつり』を立ち上げ、落語界のまとめ役として尽力しました」(落語関係者)
芸を磨くだけでなく、落語界に尽くした円楽さんが最後に残した“置き土産”が、「三遊亭円生」の襲名問題だった。発端は1978年に遡る。当時、落語協会の会長らが落語家を大量に真打ちに昇進させたことに、「昭和の名人」と呼ばれた六代目円生が反発し、先代の五代目圓楽らを引き連れて落語協会を脱退し、落語三遊協会を設立した。この騒動に巻き込まれたのが若き日の円楽さんだ。
「円楽さんが三遊亭楽太郎として『笑点』(日本テレビ系)のレギュラーになり名前が売れ始めた頃に落語協会の分裂騒動が起きました。その後、新団体に移った落語家は見せしめに寄席に出られなくなり、貴重な研さんの場がなくなった。また離脱者や残留者が続出し、落語家同士の人間関係がぐちゃぐちゃになった。若き円楽さんは騒動の渦中で落語界が割れていく様を見つめていました」(前出・落語関係者)
落語協会脱退からわずか1年後の1979年、円生が死去した。本来なら円生の弟子である先代圓楽が跡を継ぐはずだが、ここでも分裂が生じた。
「落語協会脱退後、円生さんと先代圓楽さんの間で行き違いが続いたんです。そのため円生さんが亡くなった後、遺族が『圓楽には円生を継がせない。三遊亭の名前の団体もつくらせない』と決めました。それで先代圓楽さんが円生の名を継ぐ道がなくなり、弟子たちも円生さんの直弟子と先代圓楽一門会に分裂しました。
さらに円生さんの死から7年後には彼の妻・はなさんらが、円生の名を、『もう誰にも継がせない名跡』を意味する『止め名』にしました」(前出・落語関係者)