【書評】『赤の自伝』/アン・カーソン・著 小磯洋光・訳/書肆侃侃房/2420円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
目下、ノーベル文学賞の呼び声高いカナダの詩人だ。古代ギリシャの詩人ステシコロスが書いた「ゲリュオン譚」と文献を彼女が英訳し、それを元にびっくり仰天のBL風二次創作を書きあげた。これらが一冊の本にまとまっている。
まずは、ステシコロスの斬新さを説明したい。ゲリュオンとは英雄ヘラクレスに成敗された、三つの頭と六本の手足をもつ赤い怪物だ。なぜ殺されたのか? ゲリュオンは赤い島で、赤い神秘的な牛の群れを飼い、両親とともにひっそり暮らしていたのに、武勲自慢のヘラクレスが乗りこんできて、ゲリュオンも、彼の牛たちも、彼の愛する子犬までも虐殺して手柄にしたのだ。
なんだか、なにもしていないのに桃太郎に退治されてしまう鬼たちを思わせるが、古代ギリシャでは英雄を主人公にして物語を書くのが常道であり、怪物の視点からその悲哀に迫ったステシコロスの手法は非常に斬新だったらしい。
もう一つ、新しい点がある。日本の枕詞にやや似て、古代ギリシャでは人名には決まった形容語句がある。ヘラクレスなら「試練に強い」だ。ステシコロスはそのお約束を次々と解き、自由な表現を生みだした。
こうしたアプローチに前衛詩人で翻訳家のカーソンが触発されて、「赤の自伝 ロマンス」が出来あがった。時代は20世紀。ゲリュオンはその翼を隠しながら人間界で暮らすマイノリティとして描かれる。マザコン気味の少年だが、兄に脅され性的虐待を受ける日々だ。自分の心を殺さないため「自伝」を作りはじめるが、ある日、街中で美しいヘラクレスと出会い、敵同士のはずのふたりは愛しあうようになる。
悪魔的な魅力をもつヘラクレスと、優しくて自己肯定感の低いゲリュオンのもとに、南米生まれの野性味あるアンカッシュという青年が加わり、物語はロードノヴェルへ発展する。詩人の創造力が爆発するクライマックスに期待いただきたい。男たちが何千年と書いてきたヒロイズムの鼻をへし折る快作だ。
※週刊ポスト2022年11月11日号