【書評】『スクイズ・プレー』/ポール・ベンジャミン・著 田口俊樹・訳/新潮文庫/880円
【評者】大塚英志(まんが原作者)
ポール・オースターがミドルネームのポール・ベンジャミン名義で書いたこの処女作が興味深いのは、これが村上春樹『羊をめぐる冒険』と同じ一九八二年に刊行されている「偶然」だ。
村上春樹は『風の歌を聴け』で仮構の作家デレク・ハートフィールドの年譜、『1973年のピンボール』ではピンボール・マシーンの来歴を「大きな物語」に代替し、歴史の不在の中に「ぼく」を配置したポストモダン文学のお手本のような二作を書いたのち、探偵小説の構造を実装した『羊をめぐる冒険』を出版した。
ハードボイルド小説の典型すぎる典型であることを目論んだこの小説を今読んで感じるのは、探偵小説の安定した物語構造は、歴史から私に至るまでありとあらゆる「大きな物語」を喪失しても尚、主人公がひどく饒舌に語るのを十分に担保することだ。
村上やオースターが小説家として自らを起動させようとした時に探偵小説を実装する必要があったのは、このような「語り」の復興だったのかと、改めて感じる。悪態を含めて一人称叙述はハードボイルド小説では徹底して定型化されていて、だから近代小説のように「私」をいちいち懐疑する必要はない。
「探偵」は社会的な仕事も家族も失っているという設定上の定番に加え、事件の依頼を唯一証拠立てる脅迫状さえ消滅する。あらゆる根拠は喪失され回復しない。それでも村上の前2作のような「私」を根拠づける「年代記」は必要ない。物語が閉じる時、彼の関わった男は全て死に、女は全て去る。しかも「物語の構造」に担保された「私」は不死身のスーパーマンのように生き残る。
すると村上春樹の小説の主人公が、いわば安堵して「喪失感」を愉しむことができるのは、同じように探偵小説の構造に「私」が担保されているからだと改めてわかる。そのように二つの小説は合わせ鏡のように似た文学史上の試みだ。そして、この二つの探偵小説が同じ年に描かれる「偶然」が、彼らが不在に思えた「歴史」の所在そのものだったと言えるのは、四十年を経たからに他ならない。
※週刊ポスト2022年11月18・25日号