ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立V」、「国際連盟への道3 その6」をお届けする(第1361回)。
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西園寺公望の生涯を語っているうちに、話は一八八一年(明治14)に戻ってしまった。読者のなかには、本章のタイトルは「国際連盟への道」ではないか、なぜすぐにそこへいかないのか? と疑問を持っている方もいるかもしれない。そういう方々になぜこうした記述を続けているか、その意図を説明しておく必要があるだろう。
西園寺公望という人物は、伊藤博文や大隈重信あるいは桂太郎などにくらべて歴史的知名度は低い。その理由は、彼がめざした政治が大日本帝国の主流とはならなかったからだ。身も蓋もない言い方をすれば、彼は「負け組」なのである。しかし彼が敗北したことによって、逆に大日本帝国は結局「敗北への道」をたどったことも事実である。なぜそうなったかということを追究するためには、「負け組」がなぜ、そしてどのように負けたのかをチェックしておく必要がある。
それに「負け組」とは言っても、彼は内閣総理大臣を複数回務めライバル桂太郎と「桂園時代」を築いた男だ。その影響力は決して半端なものでは無かった。しかし、そうしたことは「勝ち組」の歴史だけを見ていると視野に入ってこない。だからこそ「桂園時代」に至るまでの西園寺の生涯を見ておかねばならないのだ。
その西園寺の最初の「負け」は、東洋自由新聞の社長の座を辞さざるを得なかったことだろう。彼は皇室の藩屏たる公家であり、しかもフランス長期留学というワガママを許してもらった恩もある。内勅とはいえ天皇の命令に逆らうことはできない。しかし、辞職にあたって西園寺は天皇を諫めるべきだと考えてもいた。こうした形での言論弾圧は、健全な国家の発展に悪影響を与えるからだ。そこで西園寺は上奏文をしたためた。もちろん明治天皇宛である。
〈勅諭の深意は、新聞は華族の従事すべき事業でないことと、自由の論は民心を煽惑して政を害することの二つの主旨のようだが、すでに欧米諸国の文物制度を取り入れる方針である以上、言論の自由を拡張するのは当然であろう。また詔勅で「立憲の制」にしたがう意をのべた以上、自由の論を認め、新聞紙の役割を評価すべきだ。もし新聞紙が政治に害があるというのであれば、華族だけを例外とするのではなく、士族平民についても禁止するのが当然となる。どうか陛下は一日時間をとって私の意見をおきき下さい。そうすればくわしく申し上げます。これが上奏文の主旨であった。〉
(『西園寺公望 ―最後の元老―』 岩井忠熊著 岩波書店刊)
著者の岩井忠熊は、この文章の続きで「この上奏文は左大臣だった有栖川宮熾仁親王の文書の中にのこっていたという。果たして天皇の手許まで届いたか否か明らかでない」と書いているが、それはたしかな史料が無い限り断言はしないという歴史学者の性癖(失礼!)に基づくもので、この「御進講」は結局実現しなかったと考えるのが妥当だろう。有栖川宮か岩倉具視あたりが、「握り潰した」に違いない。
もしそれが実現していたとすれば、ほかならぬ西園寺がなんらかの形で記録に残すはずである。それこそ彼がフランスで学んできたことの根幹であるからだ。そして、それが実現していたら大日本帝国の言論環境はかなり改善され、ひょっとしたら大逆事件による幸徳秋水らの処刑も阻止されたかもしれないと思うのは私だけだろうか。
残念ながら、そうはならなかった。このとき政府は「社長を辞めれば官僚として登用する」ともちかけたようだが、西園寺はすぐには応じなかった。それでは東洋自由新聞の同志たちには露骨な裏切りに映ると考えたのではないだろうか。そこで彼は、しばらくパリの留学生仲間が設立した明治法律学校で行政法の講師となった。明治法律学校は明治大学の前身である。そして七か月がすぎた十一月に、西園寺は参事院議官補として政府に採用された。役人人生の始まりであった。