“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。(連載の第1回)
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「お車の用意は出来ております」
2022年10月1日、土曜日。
午後5時から内幸町のレストラン「アラスカ」で、イベント会社を経営する鈴木裕枝のバースデーパーティが催された。
大勢の来賓が集まった。大相撲の高安、歌手の佳山明生、タレントのマッハ文朱、東京オリンピック・パラリンピック担当大臣をつとめた櫻田義孝衆議院議員の姿もある。総勢40名。座が盛り上がらないはずがない。
終盤に差し掛かった頃、ロングのワンピースに淡い灰色のカーディガンを羽織った白髪の婦人が壇上に上がった。一礼したのちマイクを握ると、ピアノの伴奏に合わせて「I was waltzing~」と『テネシーワルツ』を朗々と歌い上げた。
「昔の友人に恋人を紹介したら、その友人に恋人を奪われた」という歌詞が、誕生日のお祝いに相応しいとも思えなかったが、どうしても今日はこの曲が歌いたかった。抑えの効いたボーカルが場内に響き渡る。
婦人は田中敬子といった。
この日の主役である鈴木裕枝にとって、81歳の田中敬子は母親のようであり、気兼ねなく話せる親友のようでもある。敬子が壇上から降りると、拍手が鳴り止むより早くレストランの支配人が「お車の用意は出来ております」と耳打ちした。
「ありがとうございます」
そう言って掌を表に向けると、時計の針は午後9時を指していた。敬子はこの後のことを考えた。あまり遅くなってもいけない。でも、直行するのもどうかしら。もう酔ってはいないけど躊躇がないこともない。別のテーブルでは二次会の話も聞こえてくる。二次会は深夜まで続くに決まっている。その後で合流出来なくもないが、そんな気にならないこともわかっていた。
虎ノ門の方角に流れる赤ら顔の来賓に別れを告げながら、敬子はタクシーに乗り込む。
運転手が行き先を求めるように横顔を見せた。喫茶店にでも寄ろうかと脳裏をよぎったが、それも気が進まない。珈琲一杯で厳かな雰囲気が取り繕えることもないはずだ。
敬子は行き先を告げた。あの人なら許してくれるはず。「小さいことは気にするな」と主人も言ってくれるに違いない。そう思うことにした。白金高輪のマンションに着くと、玄関には大きな革靴がいくつも並んでいた。その光景はどこか懐かしく、促されるまま中に入ると、夜10時近くにもかかわらず、リビングには喪服に身を包んだ大柄な男の姿があった。
敬子の姿を認めた何人かがおもむろに立ち上がると、体を折るように叩頭した。敬子も目礼で返す。小川直也以外は誰かわからなかった。名前を聞いてもわからないだろう。
寝室に足を踏み入れると、ベッドに遺体が安置されていた。まるで眠っているようだと敬子は思った。
アントニオ猪木である。