ライフ

【書評】オーストラリアを代表する作家が紡ぐ物語 深く静かに響き合う死者の声を聴く

『野原』/著:ローベルト・ゼーターラー/訳:浅井晶子

『野原』/著:ローベルト・ゼーターラー/訳:浅井晶子

【書評】『野原』/ローベルト・ゼーターラー・著 浅井晶子・訳/新潮クレスト・ブックス/2200円
【評者】与那原恵(ノンフィクションライター)

 そこは世界のどこにでもあるような、ありふれた町なのかもしれない。〈北から南まで二十五分で歩ける、西から東までは二十分もかからない小さな町〉で、住民の多くはつましく生き、生涯を閉じると、町はずれの「野原」と呼ばれる墓所に葬られた。

 オーストリアのどこかにある町、パウルシュタット。「野原」に、毎日のようにやってくる老人がいる。彼は白樺の下に置かれたベンチに腰掛け、死者たちの「声」を聴く。〈ここに眠っている者たちの多くは、個人的に知っていたか、人生で少なくとも一度は出会ったことがある人間たちだった。ほとんど皆が、パウルシュタットの素朴な市民だった〉

 現代オーストリアを代表する作家のひとり、ローベルト・ゼーターラーが紡ぐ物語は、「野原」に眠る二十九人の独白で構成されている。それぞれが生きた時代は異なり、パウルシュタットに暮らすことになったいきさつ、職業や暮らしぶり、家族構成、彼らが抱えた苦しみや悲しみ、喜びの瞬間も、愛のかたちも違う。

 だが死者たちが生きていたとき、濃淡はあるにせよ、互いに関係があったこともしだいにわかるのだが、「野原」の下にいるいまは、死者同士が語り合うことはできない。それでも彼らの声は深く、静かに響き合って、やがて町の歴史が織りあげられてゆく。

 十九世紀の初頭、パウルシュタットに住んでいたのは〈農民の四家族〉だけだったが、二十世紀になると、戦争から辛くも逃れてきた人や、アラブ世界とおぼしき国から移民して青果店を営む家族など、住民の背景は多彩になる。この平凡な町にも事件が起きた。司祭による教会への放火、剛腕な市長が進めたレクリエーションセンターが建設されるが、建物は崩壊し、三人の死者が出る。空想好きの少年は池で溺れ死んだ──。

「野原」の下にはそれぞれの人生の時間が堆積している。ありふれた人生などないことを、思いを語り尽くせないまま死を迎えることを、私たちに語りかける。

※週刊ポスト2022年12月9日号

関連記事

トピックス

“令和の小泉劇場”が始まった
小泉進次郎農相、父・純一郎氏の郵政民営化を彷彿とさせる手腕 農水族や農協という抵抗勢力と対立しながら国民にアピール、石破内閣のコメ無策を批判していた野党を蚊帳の外に
週刊ポスト
6月2日、新たに殺人と殺人未遂容疑がかけられた八田與一容疑者(28)
《別府ひき逃げ》重要指名手配犯・八田與一容疑者の親族が“沈黙の10秒間”の後に語ったこと…死亡した大学生の親は「私たちの戦いは終わりません」とコメント
NEWSポストセブン
伊勢ヶ濱部屋に転籍した元白鵬・宮城野親方
【元横綱・白鵬が退職後に目指す世界戦略】「ドラフト会議がない新弟子スカウト」で築いたパイプを活かす構想か 大の里、伯桜鵬、尊富士も出場経験ある「白鵬杯」の行方は
NEWSポストセブン
「最後のインタビュー」に応じた西内まりや(時事通信)
【独占インタビュー】西内まりや(31)が語った“電撃引退の理由”と“事務所退所の真相”「この仕事をしてきてよかったと、最後に思えました」
NEWSポストセブン
ブラジルを公式訪問される佳子さま(2025年6月4日、撮影/JMPA)
《ブラジルへ公式訪問》佳子さま、ギリシャ訪問でもお召しになったコーラルピンクのスーツで出発 “お気に入り”はすっきり見せるフェミニンな一着
NEWSポストセブン
「日本人ポップスターとの子供がいる」との報道もあったイーロン・マスク氏(時事通信フォト)
イーロン・マスク氏に「日本人ポップスターとの子供がいる」報道も相手が公表しない理由 “口止め料”として「巨額の養育費が支払われている」との情報も
週刊ポスト
中居の女性トラブルで窮地に追いやられているフジテレビ(右・時事通信フォト)
《会社の暗部が暴露される…》フジテレビが恐れる処分された編成幹部B氏の“暴走” 「法廷での言葉」にも懸念
NEWSポストセブン
渡邊渚さんが性暴力問題について思いの丈を綴った(撮影/西條彰仁)
《渡邊渚さん独占手記》性暴力問題について思いの丈を綴る「被害者は永遠に救われることのない地獄を彷徨い続ける」
週刊ポスト
 6月3日に亡くなった「ミスタープロ野球」こと長嶋茂雄さん(時事通信フォト)
【追悼・長嶋茂雄さん】交際40日で婚約の“超スピード婚”も「ミスターらしい」 多くの国民が支持した「日本人が憧れる家族像」としての長嶋家 
女性セブン
母・佳代さんと小室圭さん
《眞子さん出産》“一卵性母子”と呼ばれた小室圭さんの母・佳代さんが「初孫を抱く日」 知人は「ふたりは一定の距離を保って接している」
NEWSポストセブン
違法薬物を所持したとして不動産投資会社「レーサム」の創業者で元会長の田中剛容疑者と職業不詳・奥本美穂容疑者(32)が逮捕された(左・Instagramより)
《レーサム創業者が“薬物付け性パーティー”で逮捕》沈黙を破った奥本美穂容疑者が〈今世終了港区BBA〉〈留置所最高〉自虐ネタでインフルエンサー化
NEWSポストセブン
小さい頃から長嶋茂雄さんの大ファンだったという平松政次氏
《追悼・長嶋茂雄さん》巨人キラーと呼ばれた平松政次氏「僕を本当のプロにしてくれたのは、ミスターの容赦ない一発でした」
週刊ポスト