“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第3話は敬子の将来に大きな影響を及ぼす幼少期の「ご近所付き合い」を辿る。【連載の第3回。第1回から読む】
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母・鶴子の死と後妻・佳子
中国戦線で九死に一生を得て帰還した田中勝五郎が、警察に奉職したのは1940年である。それまでも母親の言うことは絶対だったが、深夜の不思議な出来事を聞かされ「母さんが命を救ってくれた」と思い至った勝五郎が、母親の意見に容喙出来ようはずもなかった。
日本の警察は警察法第62条によって、10の階級に分けられる。巡査、巡査長、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正、警視長、警視監、警視総監。その上に警察庁次長と警察庁長官があるが、制度上は警視総監が最上位となる。大学卒業後、国家公務員総合職試験に合格すればキャリアとして警部補からのスタートとなるが、一般職試験で採用されたノンキャリアが交番勤務の巡査からスタートするのは、戦前も戦後も変わりがない。一般採用の田中勝五郎も、まずは交番勤務からつとめた。
警察官になってすぐ勝五郎は妻、鶴子を娶った。1年後に長女の敬子が生まれ、2年後には長男の勝一が生まれた。しかし、戦況の悪化は平和な家庭をも容易く呑み込んでしまう。1945年3月10日の東京大空襲では、10万人近い無辜の民が命を落とした。横浜も安全ではなく、それどころか、市内全域を襲った5月29日の横浜大空襲の記憶は、今も敬子の脳裏に焼き付いている。
「空襲警報が鳴って、防空頭巾を被らされて、杉山神社の裏山に逃げたんです。近所のおじさんが布団を頭から被って走っている場面とか、裏山から火の海が見えたこととか、はっきり記憶していて……。あの空襲で関内も伊勢佐木町も全部焼け落ちましたね。何が嫌だってB29の『ゴーン』って音。今でも時々思い出すわ。それでも、ウチは誰も被害に遭わず、家も焼けなかったから、よかったんだけど……」
大空襲の後、母の鶴子が咳や息切れに苦しむようになった。肺気腫と診断され、即入院したが、医師の多くは被災者の治療に追われ、その数が致命的に足らなかった。これと言った処置も施されず、母親が日に日に衰弱していく様子を、4歳児だった敬子も微かに記憶している。
結局、鶴子は苦しみながら息を引き取った。敬子には母親の記憶はほとんどない。それでも「あれは戦死と同じよ」と憤りを込めて言う。終戦を迎えたのは、鶴子が亡くなってすぐのことだ。
戦後の田中家は、しばらくは祖母の志がが家事一切を取り仕切るようになる。
「祖母に厳しくしつけられたのはここから。小さい子供でも絶対に容赦しないんです。『畳の線を踏むな』とか『戸をぴしゃんと閉めない』とか細部に至るまですべて。でも、全然嫌な記憶にはなってない。むしろ、感謝しているくらい。根は優しい人だったし、それに、ここで祖母に躾けられてなかったら、私の人生はまったく違うものになっていたと思うから」
敬子が6歳のとき、勝五郎は後妻を迎えた。佳子という気立てのいい美人である。敬子は若い女性の姿が家庭にあるのが嬉しく「おばちゃん、おばちゃん」と懐いた。見かねた勝五郎は「馬鹿もん、お母さんと呼べ」と怒ったが、それでも敬子は時々「おばちゃん」と呼んだ。
弟が立て続けに生まれた。英三と岩秀である。幼い弟を連れて野山を駆け回る敬子を見て、近所の人は「まるで志がさんみたいだ」と囃した。権力者の志がに似ていると言われて、幼い敬子は満更でもなかった。