「五・七・五」の17文字の中に、季節を表わす「季語」を入れて詠むのが有季定型の俳句の基本ルール。それに対して、文字数にこだわらず、季語がなくてもよしとするのが「自由律俳句」だ。その代表的な作者である種田山頭火(1882-1940)や尾崎放哉(1885-1926)の俳句が、新型コロナ禍の今、再び見直されている。
「咳をしても一人 放哉」「うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火」など、自分の「孤独」と向き合うような言葉が、時に「心を軽くさせる」ような作用をしてくれるという声もある。
むしろ、俳句をまったく知らなかったという人には、定型やルールがない自由律のほうが親しみやすいかもしれない。「創作」だけでなく、「鑑賞」の仕方も「自由」なのだから——。
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今日「自由律俳句」と呼ばれている新しいジャンルの俳句が生まれたのは、明治後半から大正にかけて、今から100年以上も前のことになる。その誕生に大きく貢献したのが、荻原井泉水(せいせんすい)が立ち上げた俳句機関誌『層雲(そううん)』だった。
山頭火も放哉も、ともに同世代の井泉水を師としながら、『層雲』でたくさんの句を発表した。それらは、100年経った今でも、それだけの古さを感じさせない不思議な魅力がある。
「すばらしい乳房だ蚊が居る」「秋風あるいてもあるいても」─印象的な名句の数々
自由律俳句の巨人として並び称される2人の句の中には、どこかで目にしたことがある句があるかもしれない。
「分け入つても分け入つても青い山」 山頭火
「たつた一人になりきつて夕空」 放哉
「へうへうとして水を味(あじは)ふ」 山頭火
「こんなよい月を一人で見て寝る」 放哉
「鉄鉢(てつぱつ)の中へも霰(あられ)」 山頭火
「漬物桶(つけものをけ)に塩ふれと母は産んだか」 放哉
「あるけばかつこういそげばかつこう」 山頭火
「すばらしい乳房だ蚊が居る」 放哉
「秋風あるいてもあるいても」 山頭火
「入れものが無い両手で受ける」 放哉
「や」とか「かな」「けり」といった独特の表現(切れ字)もなく、古語や昔ながらの言い回しもない。読みやすくて、普通の感覚で理解できるように思える。
しかし、ふと疑問に思う。そんな自己流の鑑賞の仕方でいいのだろうか──。