ロシアによるウクライナ侵攻、安倍元首相銃撃といった衝撃的な事件が次々に起きた2022年。大きな歴史の分岐点に立つ私たちはいま、何を考え、どう処すべきなのか? 本誌・週刊ポストのレギュラー書評委員12名と特別寄稿者1名が選んだ1冊が、その手がかりになるはずだ──。
【書評】『共有地をつくる わたしの「実践私有批判」』/平川克美・著/ミシマ社/1980円
【評者】川本三郎(評論家)
「共有」とは「私有」の反対の生き方。現代の資本主義社会は、個人のあるいは法人の私有を基本にしている。それに対し、著者は共有の生き方を提唱する。私有財産がなくても工夫によって快適に生きてゆくことができる。
例えば著者は賃貸マンションに住む。物書きの仕事は、喫茶店でする。食事は近所の大衆食堂ですませる。一日の終わりは銭湯で垢を落とし、くつろぐ。賃貸マンション、喫茶店、大衆食堂、そして銭湯。すべて私有物ではなく共有の空間である。私有に執着せず、共有の場を利用することで、暮しを楽しむ。
「内風呂に入らないし、自分で料理を作らないので、水道代はほとんど基本料金しかかかりません。広い銭湯では、思う存分、手足を伸ばして湯に浸かることができます。仕事場は喫茶店なので好きなときにコーヒーや軽食を注文できるし、気が向けば常連たちと世間話をして仕事の手を休めることもできます」
そうか、こういう暮し方があったかと思わず膝を打つ。何も無理して自分の家にこだわることはないのだ。共有の空間(共有地)を利用すれば一人暮しの人間なら充分に楽しく暮してゆける。
著者は町工場の多い東京の蒲田に一九五〇年に生まれた。当時の蒲田は日本の多くの町がそうだったように向う三軒両隣の共同体で、味噌や醤油の貸し借りは当り前だったし、隣りの家に風呂を借りに行くのも普通だった。まさに共有の時代だった。それが資本主義社会の高度化と共に、消費のための私有の時代へと変わった。
著者は六年ほど前に事業に失敗し、私有財産の多くを失なった。その時に思い出したのが、子どもの頃の共有の時代だった。人はモノを貯めこんだりしなくても充分に幸福に生きてゆける。そう考えて本書が書かれた。見習いたい暮しだが、気づいてみればわが町には大衆食堂も銭湯もない。無念。
※週刊ポスト2023年1月1・6日号