ロシアによるウクライナ侵攻、安倍元首相銃撃といった衝撃的な事件が次々に起きた2022年。大きな歴史の分岐点に立つ私たちはいま、何を考え、どう処すべきなのか? 本誌・週刊ポストのレギュラー書評委員12名と特別寄稿者1名が選んだ1冊が、その手がかりになるはずだ──。
【書評】『過剰可視化社会 「見えすぎる」時代をどう生きるか』/與那覇潤・著/PHP新書/1056円
【評者】平山周吉(雑文家)
二〇二〇年以来いつまでも(不必要に)長引くコロナ禍に加え、今年はさらに殺伐たる年であった。いつものことかもしれないが、本質は目隠しされ、目前の事象へと世間の関心は横滑りさせられる。元首相暗殺にしても、事件の核心を執拗に追及しているのは、青山繁晴参議院議員の「青山繁晴チャンネル」くらいではないか。
現役の言論人で信頼のおける存在も寥々たるものとなった。国家や自治体や組織の根拠なき要請に、唯々諾々と従った言論人は、戦前昭和を批判する資格を自ら返上したに等しい。
言論には潤いのある批評精神が欲しい。その私の欲求を満たしてくれたのは、法大教授で日本政治思想史家の河野有理と、元大学准教授で現在は評論家の與那覇潤の二人だった。ともに昭和五十四年(一九七九)生まれだから、四十歳代前半である。辛辣な批評の牙を、余裕のあるユーモアで武装(非武装)し、知をマイルドに溶かし込んだ言葉に換える。世の電子空間を占領する糾弾、暴言からは最も遠いところからの声だ。
『過剰可視化社会―「見えすぎる」時代をどう生きるか』は與那覇の芸が冴える。この本で與那覇は、二〇一〇年代以降の日本を「過剰可視化社会」と命名する。日本人の多くがSNSを使い始めた結果、「政治的な意見や信条」「抱えている病気や障害」といったプライベートが他人にも見えてしまう社会が出現し、さらにはわかりやすく数値化される。かくて「不可視」の信頼や寛容といったものが、忘れられていった。そうした感受性が当たり前になった時代への警鐘を鳴らしている。
「過剰可視化社会」だけでなく、「専門禍」「プレゼンが振り回す政治」「言論上の美容整形」「絵になる弱者」「人間の『アプリ化』」など批評精神全開スレスレの命名と分析にも、ますます磨きがかかってきた。與那覇の批評精神にはいつも処方箋が用意されている。それが読者の平常心を回復させてくれる。
※週刊ポスト2023年1月1・6日号