ロシアによるウクライナ侵攻、安倍元首相銃撃といった衝撃的な事件が次々に起きた2022年。大きな歴史の分岐点に立つ私たちはいま、何を考え、どう処すべきなのか? 本誌・週刊ポストのレギュラー書評委員12名と特別寄稿者1名が選んだ1冊が、その手がかりになるはずだ──。
【書評】『論争 関ヶ原合戦』/笠谷和比古・著/新潮選書/1650円
【評者】山内昌之(富士通フューチャースタディーズ・センター特別顧問)
関ヶ原合戦で意見が分かれる論点を整理しながら、説得的解釈を試みた好著である。最近、関ヶ原合戦は関ヶ原でなくその西側の「山中」村で行われたという説が出ている。著者は、各武将の陣立ての位置関係を分析した上で、「山中」とは美濃の山中という意味であり、戦場名を付ける前には山間部という意味で「山中」という一般名称を使ったとする。
他方、合戦がすぐに終わったという説もあるが、やはり午前8時くらいに開戦しており、当日朝の深い霧で戦いが各所で断続的に行われた。10時くらいに朝霧が晴れ、視界が良好となった後に本格的会戦が生じたというのだ。吉川広家のいう西軍を「即座に乗り崩した」という表現は、「手もなく簡単に片づけてやった」くらいの意味だと、著者の説明は明快である。
小早川秀秋に裏切りを催促した問い鉄砲も実際にあったと著者は論証する。ただし、家康も慎重に秀秋本陣の松尾山に打ちかけた。なにしろ秀秋が“逆ギレ”して家康本陣を衝かないとも限らない。しかし、家康としては秀秋の参戦なくして戦勝はおぼつかない。そこで、実射をしたうえで、これは誤射であり御懸念無用と丁重に挨拶したというのだ。まさに「誤射を装った訳ありの射撃」とは家康らしい政治性であり、著者の指摘には無理がない。
戦闘開始から数時間も経ち、秀秋が昼前頃に下山攻撃に移ったのは、家康の威嚇と懐柔の混じった老獪な決意を知ったからだ。他方、南宮山の毛利秀元は大坂城の西軍総帥・毛利輝元からいかなる命を受けていたのか。秀元が自軍内部の亀裂、すなわち西軍参謀格の安国寺恵瓊と東軍内応者の吉川広家の確執をどうとらえたのか。これらの要素が総合的に不戦という決断にいかなる影響を及ぼしたのか。
のちに徳川秀忠・家光にも厚遇される毛利秀元ほどの勇将が戦局を傍観したのは不思議だ。吉川が先鋒として下山口を塞いだという軍事的要因だけだったのだろうか。まだ大きな謎が残っている。
※週刊ポスト2023年1月1・6日号