アメリカと日本の音楽文化が、独特の風土と歴史のなかで混ざり合って生まれた「沖縄(ウチナー)ジャズ」。今年、米寿を迎える“石垣島のオバー”こと齋藤悌子さんは、ウチナージャズと人生の苦楽を共にしてきた、現役のジャズシンガーだ。「好きなことを続けることが元気の源」。アメリカ統治下の米軍基地で歌い始め、昨年は“デビューアルバム”も制作し、今年はいよいよ東京・有楽町のステージに立つ──。そんな87歳の女性ジャズシンガーの物語──。【全4回の第4回。第1回から読む】
* * *
沖縄で“騒動”が起きたのは1966年11月。終戦後、宮古島で洗礼を受け、キリスト教の牧師になった齋藤さんの兄・平良修さんが、琉球列島高等弁務官の就任式に祈祷牧師として招かれたことが、大きなニュースとして報じられた。
当時、琉球列島米国民政府に置かれた高等弁務官の権力は強大だった。琉球政府の施策にも度々介入したため沖縄住民の反発を買い、復帰運動が激しさを増す一因にもなった。齋藤さんの兄は、就任式でこう祈りを捧げた。
「神よ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように」
民衆の思いを代弁し、米軍の武力支配を拒絶した平良牧師の祈りは世界中で大きな反響を呼んだ。齋藤さんが振り返る。
「就任式でよくあんな祈りができたと称賛する人と、批判する人に分かれて大変な騒ぎになったことを後から知って、大変驚きました。兄とはずっと仲よくしてきましたが、基地の話をしたことは一度もなかったんです」(齋藤さん)
昨年5月、沖縄は本土復帰50年の節目を迎えた。だが、在日米軍施設の7割が集中する状況に変化はなく、いまも多くの課題を残したままだ。沖縄で米軍基地の反対運動のシンボルとなった齋藤さんの兄は立場上、基地で歌う齋藤さんの歌を一度も聴いたことがなかった。
「伯父は米軍に撤退してほしくてずっと活動を続けていたのに、母はその米軍のために歌を歌っていたわけですからね。母をとがめたり、歌うのを止めようとしたことはなかったといいますが、胸中には複雑な思いがあったと思います」(齋藤さんの長女・東山盛敦子さん)
昨年10月30日、沖縄・本部町のプラザハウスで行われた齋藤さんのライブに、平良牧師の姿があった。東山盛さんが振り返る。
「母が本島でライブを行うのは五十数年ぶりだったと思います。いままで母の歌を一度も聴いたことのない伯父も会場に来て、前の方に座って聴いていたんですね。私は母に、米軍の兵隊も傷ついているのを目の当たりにしたことを伯父にも伝えるべきだと言ったんです。当時、基地の中で働く日本人は少なかったし、実体験で話せる人は少ないですから。
ライブの終盤に母がその話をして歌い終えると、伯父が急に席を立ち上がり、ステージにいた母を抱きしめたのです。みんなビックリしていましたが、お互いに感極まってしまったんでしょうね」