アメリカと日本の音楽文化が、独特の風土と歴史のなかで混ざり合って生まれた「沖縄(ウチナー)ジャズ」。今年、米寿を迎える“石垣島のオバー”こと齋藤悌子さんは、ウチナージャズと人生の苦楽を共にしてきた現役ジャズシンガー、昨年は“デビューアルバム”も制作した。そんな齋藤さんの歩みを振り返る。沖縄という土地柄ゆえ、米軍との関係も深いという。
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那覇の高校に進学した齋藤さんに、歌を仕事にすることをすすめたのは学校の教師だった。
「当時から歌うことが好きで、学芸会で独唱したこともありました。あるとき、先生から『悌ちゃん、あなた社会に出たら音楽の道に進んだら?』と言われて、基地でシンガーのオーディションを受けることになったんです。当時はクラシックしか歌えなかったので、試験では(シャルル・)グノーの『アヴェ・マリア』を伴奏なしで歌いました」(齋藤さん)
1972年の本土復帰まで、アメリカ軍の直接統治下に置かれた沖縄は政治経済、法制度や文化などあらゆる面で本土と切り離された状態が続いた。内地から沖縄に行くにはパスポートが必要で、通貨はドル。街中に英語があふれ、自動車は右側通行だった。
27年間に及ぶ米軍統治下の時代を沖縄の人は「アメリカ世(ゆ)」と呼ぶ。ラジオからリアルタイムでアメリカのヒット曲が流れ、米軍基地で日本人のバンドマンが演奏していた沖縄では、ジャズもアメリカや日本とは違った独特の文化が形成されていったという。齋藤さんが続ける。
「実はオーディションで私をスカウトしてくれたのが、後に結婚する夫なんです。夫はギタリストで、バンドマスターでした。あのときの私は横文字の歌はあまりわからなかったけど、クラシックを歌えたから何とかなると思ったんでしょうね(笑い)。英語もほとんどできなかったので、曲は耳で覚えて、歌詞は何度もノートに書き写しました。憧れだった歌の世界に入ることができたので、勉強は苦じゃなかったです。
もう忘れてしまった曲もあるけど、好きな歌はずっと覚えているし、いまも400曲くらいは歌えるんじゃないかな。歌詞を書いたノートや兵隊さんが書いてくれたリクエストカードは捨てられずに取ってあります」