今年度のNHK大河ドラマ『どうする家康』は、ごぞんじ徳川家康の物語。その将軍の血筋を絶やさぬためのシステムが「大奥」だ。
武家社会の中心地である江戸城に、将軍以外の男は決して立ち入ることのできない女の花園「大奥」はあった。江戸幕府開幕以来、明治維新を迎えるまで存在し続けた大奥について、多摩大学客員教授で歴史家の河合敦氏が解説する。
「大名家の女性たちが集団で生活をする場は室町期から存在しました。江戸幕府の『大奥』とは、もともとは将軍の母や妻、娘の生活空間のことを指します」(以下、カギ括弧内は河合氏)。
大奥は、1605(慶長10)年、徳川家康が征夷大将軍の座を息子の秀忠に譲り、この時代に江戸城本丸に本丸御殿が創られたことに始まる。御殿内部は、将軍が儀式・謁見を行なう「表」、執務や日常生活を送る「中奥」、家族との私的空間である「大奥」に区分された。そして、秀忠の正室のお江が、将軍の御台所として、大奥を取り仕切る立場となっている。
「1618(元和4)年に秀忠が『女中法度』を布告し、男子禁制や女中たちの門限などを定めましたが、当時はそこまで厳密に守られるものではなかったようです」
大奥の制度を確立したのは、秀忠の嫡男・竹千代の乳母を務めたお福である。お福が中心となり、「大奥」の基盤を整えた。そこに至った経緯には、三代将軍となった竹千代、すなわち家光が関係しているという。
「家光は正室とは折り合いが悪く、別居状態でした。加えて女性にまったく関心を示さず、男色にふける将軍だったといわれています」
いつまでも子のできない状況に危機感を覚えたお福は、家光が好みそうな女性探しに奔走し、何人もの女性を大奥に入れた。やがて女性にも興味を示すようになった家光は、自身の将軍就任に多大な貢献をしたお福に全幅の信頼を寄せた。これにより表の政治を司る老中といえども、お福に口出しをすることは難しくなったという。
老中を凌ぐ権力を手にしたお福は、1629(寛永6)年に後水尾天皇より「春日局」の名号を賜り、大奥のトップとして君臨する。これが大奥確立の瞬間といえるだろう。
※週刊ポスト2023年2月10・17日号