「あの日、弟がそこに座っているような気がしましてね」。志村けんさん(享年70)の兄・知之さんは、亡き弟にこう思いを馳せた。日本海に面した福井県あわら市にある明治17年創業の老舗旅館「べにや」。
3000平方メートルの日本庭園を囲む木造2階建ては、国の登録有形文化財だった。生前の志村さんは「べにや」をこよなく愛し、およそ20年にわたり足を運んできた。毎年正月はここで過ごし、宿泊は決まって日本庭園がよく見える露天風呂付きの特別室。ゆっくり温泉に入り、地酒や越前がにを堪能しては、疲れを癒したという。
「夕方、近所にフラりと浴衣姿で散歩に出かけては、“誰も声をかけてこなかったよ”とニコニコと笑顔で帰ってきたものでした。静かな日本海沿いのこの町は居心地がよかったのでしょう」(「べにや」関係者)
志村さんは毎年、年の暮れになると、事務所のあった東京・麻布十番の豆菓子店「豆源」の詰め合わせを旅館の従業員に送っていた。従業員たちは豆菓子が届くと、「そろそろ志村さんがお越しになる頃だ」と心待ちにしたという。
ところが、志村さんが「べにや」を訪れたのは、2018年年初が最後になった。その年の5月5日、火災により「べにや」が全焼したのだ。屋根裏で小動物が配線をかじり、火花が発生したことが原因だった。
「べにや」六代目主人や従業員たちは、温泉の源泉が無事だったことや、客から2000通もの励ましの手紙が届いたことで、再建を決意。その矢先の2019年11月、「べにや」に一本の電話が入った。声の主は志村さんだった。
「志村さんが『べにや』に電話を入れたのは、このときが初めてでした。毎年宿泊はしていても、いつもチェックアウト時に翌年の予約を入れていたので、電話の必要がなかったんです。志村さんは電話口で“必ずいちばん最初に行くから。お正月じゃなくても必ず行くから、再建がんばってください”と言葉をかけたそうです」(前出・「べにや」関係者)