今年度の大河ドラマ『どうする家康』で改めて注目を浴びる徳川幕府。徳川家康の正式な妻は、今川氏の人質時代に結婚した築山殿で、築山殿の死後は、豊臣秀吉の妹である朝日姫を後妻とした。朝日姫が1590(天正18)年に亡くなって以後、正室を置くことはなかった。
一方で、側室の数は多い。16人の側室(異説あり)との間に12男、6女をもうけている。側室の顔ぶれから、家康が後家好きであることが分かる。側室の大多数は、今日でいう熟女の未亡人である。それも子持ちの女性が少なくない。一度出産を経験した女性であれば、子孫を着実に産み増やせるという狙いだったと考えられている。多摩大学客員教授で歴史家の河合敦氏がいう。
「おそらくそれだけではありません。マザコンの気質もあったと思います。家康は3歳で人質となり、生母の於大の方と生き別れになっています。成人した後に再会を果たしていますが、幼い頃のつらい過去がマザコン的な要素となって、家康を熟女好きにさせた、という側面があると思います」(河合氏、以下同)
75歳という当時としてはかなりの長寿をまっとうした家康は健康オタクとしても知られており、粗食を心掛け、乗馬や鷹狩りなどの運動を絶やさなかった。医学にも関心が高く、薬草や鉱物などを独自に調合して多くの薬をつくり、常用していた、との話も伝わる。そのためか、晩年まで心身ともに健康で、66歳の時にも子作りに成功したという豪快な伝説もある。
晩年には、それまでの熟女好きから一変して、10代の側室を持つなど、ロリコン気質に変化。最後まで女性に対する好奇心が旺盛だったと見ることができる。
「女性の好き嫌いは激しかったようで、秀忠を産んだ西郷局を寵愛する一方で、結城秀康を産んだ於万の方とはほとんど疎遠でした。子の秀康ともあまり会った形跡がありません」
いずれにしても驚くべきことは、家康が生涯現役だったことである。
※週刊ポスト2023年2月10・17日号