事務方トップの官房副長官として竹下登氏から村山富市氏まで歴代最多となる7人の総理大臣を支えた石原信雄氏が1月29日に多臓器不全のため死去した。96歳だった。1994年、北朝鮮の核開発疑惑に対して、米クリントン政権が武力行使寸前まで準備していたされる「核危機」の際には、事務方トップとして米国との交渉役を担うなど、その功績は数多い。30年以上にわたって石原氏を取材し続けてきたNHK元解説委員で政治ジャーナリストの城本勝氏が、石原氏との秘蔵エピソードを明かす。
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私が初めて石原さんに会ったのは、1987年11月5日。第一次竹下内閣の組閣前夜だった。政治部記者1年生の私は、官房副長官が内定していた石原さんに夜回りをかけた。
面識もなく門前払いを覚悟していたが、石原さんは快く家にあげてくれた。緊張でガチガチの私に人懐っこい笑みを浮かべて「副長官は内閣の大番頭。裏方ですが取材にはいくらでも応じます。ただし、夜遅いのは苦手なので夜回りは遠慮してください」と言ってくれたことを憶えている。
以来7年余り、7つの内閣に仕え「影の総理」とまで呼ばれた石原さん。何と言ってもその業績は、内閣が次々に倒れ、2度の政権交代が起きるなど政治の激動と混乱が続く中で、「大番頭」の役割に徹したこと、行政の継続性、政治の安定のためにどの内閣も公平に支え続けたことだろう。
官房副長官は、官僚のトップであると同時に、時の政権が任命する「政治任用」だ。宮澤(喜一)政権が倒れて細川(護煕)政権が樹立された時には、辞任を申し出たが、細川首相から強く要請されて職に留まった。自社さ政権の村山内閣が誕生した時も、村山首相本人から続投を要請された。石原さんは、「自衛隊合憲を認めること」と珍しく条件を出したが、村山首相もすでに腹を決めており受け入れたという。社会党の首相であっても行政の継続性を保つには基本政策は変えるべきではないという行政官の信念だった。
首相が交代する時には、様々な政治的な影響がある。怨念や怨恨が残ることも珍しくはない。ある意味で政権を制度面で支える官房副長官は、そうした政治的感情論と無縁であることは難しいはずだ。しかし、激しい政争の結果、政権に就いた側からも引き続き官邸の大番頭を求められるのは、石原さんの政治的な中立性、公平性が信頼されていたからだ。
官邸を去った後、石原さんの元には、後輩の官僚たちが相談に訪れていた。地方の首長やマスコミ関係者も多かった。大番頭を引退した石原さんは、霞が関のご意見番として頼りにされていた。私も折に触れて取材や番組の出演依頼に行った。NHKの解説委員になってからは地方自治の問題でも取材を重ねたが、何より、政治状況や霞が関の問題をざっくばらんに語る石原さんの話は参考になった。