【書評】『荷風の庭 庭の荷風』/坂崎重盛・著/芸術新聞社/3300円
【評者】嵐山光三郎(作家)
文壇とつきあわず、偏屈な個人主義をつらぬいた荷風は、そのじつナチュラリスト(自然愛好家)であった。リンドウの花をスケッチし、蓮の実を描き、道ばたに咲いていた小花をとって押し花にした。荷風が取材メモとして描いた草花図・写真、地図、路地が多数収録されている。
『墨東綺譚』の舞台となった赤線街旧玉ノ井「ぬけられます」のスケッチもうまい。荷風の「荷」は蓮の花で、断腸亭の「断腸」はピンクの花を咲かす秋海棠である。この花は断腸の想いで恋人を思いやる女性の逸話に由来し、別の名を「相思歌」という。
荷風は植物マニア、景観愛好家、庭好きで、巻頭に、麻布偏奇館(東京大空襲で焼失)の落葉を庭箒で掃く写真が出てくる。おしゃれなチョッキを着て、すりきれた下駄をはいている。
『荷風の庭』は実際の庭(ガーデン)のみならず、場末の路地、稲荷、ストリップ小屋の楽屋でもある。荷風の人と文学にある理系感覚に目をつけた力作。「理系感覚」という一本の補助線を引いて、荷風文学の迷路を探訪する。二十四歳からアメリカ、フランスへ六年間遊学した経験が、反骨と江戸趣味につながる。
荷風がつねに傍らに置いた『林園月令』とはなにか。著者の坂崎氏は千葉大学で造園学・風景計画学を専攻し、横浜市計画局に勤務していた。退職後は晩年の荷風が独居した市川にある木造モルタルアパートに隠棲して「荷風の庭」にタテ・ヨコ・ナナメに蜘蛛の糸の補助線を引いた。秋草・闇の夜ふけ、冬の庭、淫祠・木犀の香・草紅葉・散松葉・瓢箪・百舌の声・鐘の声・葡萄棚・ちぎれ雲・などなど。
重盛先生は今年八十一歳になって荷風の生涯と同じぶん生きてきた。荷風は愛用カメラ・ローライフレックスで、亭主持ちの私娼渡辺美代子ちゃんの媚態を撮る。下町を散歩し、荷風という超俗作家の庭を科学する。重盛翁は、幻視、幻聴してスクスクと老いていくのですね。
※週刊ポスト2023年2月24日号