“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第15話では叔従母(いとこおば)とのやり取りによって敬子の「夢」に変化が訪れる。【連載の第15回。第1回から読む】
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第15話「皇后陛下に似てるね」
1960年の秋、御茶ノ水の駿台予備校に通う総武線の車内で「日本航空客室乗務員・臨時募集」の貼り紙を見つけた19歳の田中敬子は「大学受験の予行演習のつもり」で受験しようと決めた。
「若干名募集」の文字もあったが、殺到するに違いなく、到底受かるとは考えもしなかった。
「しかし、なぜ、秋のこの時期に入社試験が?」という疑問もあろうが、当時の日本航空及び日本国内の状況を照らし合わせると、理由はおのずと見えてくる。
発足から8年経ったこの年、日本航空は保有機を13機まで増やしている。前年の1959年5月27日、西ドイツ(当時)のミュンヘンで行われたIOC総会において、1964年の五輪開催地に、デトロイト(アメリカ)、ウィーン(オーストリア)、ブリュッセル(ベルギー)を抑え東京が選ばれた。国内唯一の民間航空会社である日本航空からすれば、保有機の増大は必要不可欠であり、乗務員の確保も急務だったのである。
「後から聞いた話なんだけど、中途採用の社員もこの頃多かったみたい。操縦士もそうなんだけど、整備士さんとかね。人手が足らなかったのよ」(田中敬子)
かくして、男女共客室乗務員の募集が行われ、男性は「スチュワード」もしくは「パーサー」と呼ばれ、女性は「スチュワーデス」の呼び名が定着した。
1次試験の会場は目白の学習院大学の校舎が使用され「見たところ500人はいたと思う」と敬子は振り返る。
「科目は国語と英語と社会。数学はないんだけど、一般教養に含まれていたかな。私なんか予備校でずっと勉強していたから、比較的簡単でね。『これなら1次試験は受かるかもしれないな』なんて思ったの」