【書評】『僕は珈琲』/片岡義男・著/光文社/1980円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
珈琲は片岡義男にとって閃きの宝庫だ。文章の耀きがすごい。彼が決して使わない言い回し。「それは万人が認めるところだ」「白羽の矢を立てられる」などなど。なんとなく体制的な言葉を作者は瞬き一つでかわす。
わたしにとってその文章の比類なき魅力は、一つに「転調」であり、もう一つは「亀裂」だ。前者は「迂回路ではないんだよ、医者だよ」という編などに極まる。「ドトール」の店名の由来から始まり、外国語豆知識みたいな話になるかと思うと、急に「僕はドトールのエスプレッソを好いている」と話題が移る。その後には珈琲愛の話がくると思うではないか、珈琲本なのだから!
しかし次の行で「ドトールの謎なら、なんと言ってもミラノサンドだ」と急角度で話が転換する。五種のサンドについて極めて客観的な分析が行われ、なにがなしに充実した心持ちになっていると、終盤で不意打ちのように、ジャーマンドックの名前の由来は……と転調し、最後はレタスドックのソースの話。
作者は若いころ年上の編集者から、きみの文章は文と文の繋がりに主観性がない、みたいな忠告を受けたという。主観性ではない。片岡義男の文章にあるのは、英語的なロジックだ。読んでいると、日本語の底流に英語の字幕みたいなものがうっすら浮かんでいる気がする。
例えば、「時間は容易に経過した。僕は時間を容易に経過させた」と言いなおす。あっ、一回英語にしてそれを日本語に訳し戻したんだなと思う。この溝のようなものを英語育ちの彼はあえて埋めずに書いてきた。その転調にも亀裂にもあるのは、ストイシズムだ。
初めて喫茶店の「モーニング」を食べた後、「白い大きな皿に残ったのは、バター・ナイフと塩振りの容器、そして卵の殻だった」という箇所で、なぜか涙がこみあげてきた。同時に思いだしたのは、ジョイスの小説で主人公が「ソーセージと白いプディングをのせた皿と卵」を見て感極まる場面だった。
※週刊ポスト2023年3月10・17日号