【書評】『珈琲と煙草』/フェルディナント・フォン・シーラッハ・著 酒寄進一・訳/東京創元社
【評者】川本三郎(評論家)
ミステリ作家がほとんど出ないドイツで初めてといっていいほど日本でも評判になったのがシーラッハの短篇集『犯罪』。町で誰からも尊敬されている老医師が、ある日、長年連れ添った妻を突然、斧で殺してしまう。そんな話をはじめ、次々に語られる不条理な犯罪に読者は圧倒された。
シーラッハは一九六四年生まれの弁護士。数々の説明のつかない犯罪を見てきたのだろう。本書はエッセー集だが、よくある身辺雑記とは違う。さまざまな挿話が重ねられることで、人間の悪という不可解が浮きあがる。
平凡な主婦が、仕事を引退した夫が自堕落な生活をするのに我慢出来ず、入念な準備をして毒殺する。罪に服したあと出所し、幸福な結婚をする。一九四九年ドイツの最後の死刑(ギロチン)となった男。ナチの高官でニュルンベルク裁判で有罪になった祖父。彼はユダヤ人迫害に加担し、彼らの美術品も強奪した。一九七七年、ドイツ赤軍が引き起こした政財界の要人誘拐事件(いわゆる「ドイツの秋」)。悲しい事件もある。日本から音楽を学ぶためドイツに留学し、シーラッハに俳句の良さを教えた女性は脳腫瘍で若くして死ぬ。
シーラッハは十六歳で父親を亡くしている。だから死に敏感だ。自動車事故死したカミュ。恋人と心中したクライスト。幸福に見えながら自殺したツヴァイク。説明しにくい死に方をした文学者たちのことが頭を離れない。弁護士として「血に染まった部屋、切断された性器、切り刻まれた死体」を見てきた。人間という不可解な存在を考えざるを得ない。
立派な弁護士にも会う。この女性はロシアに編入されたも同然のウクライナ東部で横行する拷問と殺人に抗議して戦っている。シーラッハは彼女に敬意を表する。ほのぼのとした話もある。友人が死んだ時、彼の四歳の子供は父親が寂しくないようにと自分のキリンのぬいぐるみを棺に入れた。数々の殺人事件のあとにこの話を読むと、心が和む。
※週刊ポスト2023年3月24日号