今年もまた桜の季節がやってきた。「桜」はもちろん春の季語で、俳句において「花」といえば桜を指す──ということになっている。「五・七・五」の17文字で詠む有季定型の俳句には、あらかじめそうした“決まりごと”がある。
それに対し、文字数に縛りがない「自由律俳句」は、季語を詠み込む必要はない。しかしそれは、季節と無関係ということではもちろんなく、「季語」や「季題」といったルールに縛られずに、もっと自由に目の前のあるがままの自然を詠もうとするからだ。そのためか、自由律の作品には四季の空気をより深く感じられる句も少なくない。
自由律俳句の代表的な作者である種田山頭火(たねだ・さんとうか1882-1940)の春にまつわる名句を、新書『孤独の俳句』(金子兜太・又吉直樹共著)から厳選して紹介する。
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春は旅立ちの季節であり、別れの季節でもある。しかし、1916(大正5)年4月、山頭火33歳の春は、あまりにせつない旅立ちだった。地元・山口で営んでいた酒造場が破産し、夜逃げ同然で故郷を後にしたからだ(地図を参照)。
俳句仲間を頼って辿(たど)り着いた熊本の地で、山頭火はこんな句を詠んでいる(解説は金子兜太氏による。以下同)。
「燕とびかふ空しみ/″\と家出かな」 山頭火
〈1916(大正5)年の『層雲(そううん)』発表句。この年、妻子を連れて熊本に移った山頭火は、古本や額縁を並べた店「雅楽多(がらくた)」を営む。それにしても「しみ/″\」の語には万感があり、「家出」という言い方の投げやりな印象がよりいっそうそれを響かせている。〉
「燕」は春の季語だが、山頭火はそんな既存のルールに従って燕を詠み込んだのではない。ただ、逃げるように故郷を離れた自分自身と、この季節に巣立つ燕の姿とが重なり合ったのではないだろうか。そう考えると、ますます「しみ/″\」とする春の一句だ。
同じ時期に詠まれた次の句には「桐」が出てくる。だが、これも季語ではなく、春になって桐の葉の「青」が深まっていく様子を、やはり自身の境遇と重ね合わせている。
「さゝやかな店をひらきぬ桐青し」 山頭火
〈1916(大正5)年の『層雲』発表句。この店はいうまでもなく「雅楽多」であろう。桐の葉の青々としたころにささやかな店を開いたという淡々とした気持ちのくつろいだ句で、ひょいと気持ちにやわらぎの出たときの句ではないかと思う。〉