放送作家、タレント、演芸評論家、そして立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、超満員のうちに終わった「立川流三人の会」と、早逝した天才落語家について綴る。
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やっとだよ。WBCが14年ぶりでしょ。こっちは15年ぶりに開催。「立川流三人の会」。第2回が2008年、まだ師匠談志も元気な頃でした。高田“クリヤマ”監督としては「立川ジャパン」を揃えるのは大変でしたよ。
クリヤマ同様、私の人柄・人徳で集まったのでしょうがあの景色を見て「あぁコロナも終わったな」と実感。浜町のあの明治座。3階まで超満員。仕方なく立見席も出したのですがそんなものでは追いつかない3人プラス私と談志の人気。昼夜2回公演とも立見となりました。明治座の方もしみじみと「ここ40年間ずっと立ちあって来て、こんなに昼夜入った公演は初めてです」としみじみ。客が集まるというのはいいものだ。我々は人に愛されるのが仕事だからネ。
志の輔、談春、志らく。ここだけの話、本当に仲が悪くて、口をきくのも15年ぶり。それでも集まるとすぐにみんなでグチャグチャイチャイチャ。今年の11月で立川談志も十三回忌である。出番の前、プロデューサーである私は3人を集めて言いました。「立川談志……もう今日は憧れるのは止めましょう。闘うんです。倒しに行きましょう」。横で志らくが「もうとっくに倒れてます」だと。
感動的な昼夜公演、無事開催されましたとまずご報告。次はWBCの年に東京ドームか。談志を忘れないで下さい。
私の「供養」シリーズはまだ続く。昭和42(1967)年、江古田の日大芸術学部落語研究会。1年生同士で会ったのが高田と田島。この田島こそのちの古今亭右朝。2001年に52歳という若さで早逝してしまった幻の名人である。志ん朝門下だが、あの談志をして「右朝がそのうち天下をとるよ。あいつほどうまく喋れる奴ァいねぇ」。誰もが認めるうまさだった。
なんせ、学生で18歳の時に会った時、噺を200席カンペキにものにしていた。4年間私と田島はいつもどこでも一緒にいた。田島が落語をマンツーマンでいつも教えてくれた。だから私の噺(1980年代立川藤志楼で大爆発)は本格的、本寸法。江戸前そのものなのだ。大学時代、噺を教わるかわりに私は酒・煙草と女を教えた。
2001年4月、右朝他界。志ん朝師匠が葬儀委員長、私が副委員長だった。師よりも先に逝くのは“逆縁”といっていいことではない。その年の10月、師匠である名人古今亭志ん朝があとを追うように逝った。
「右朝ふたたび 二十三回忌追善の会」。5月8日下北沢・北沢タウンホール。私とオール日芸で志らく、一之輔、わさびが出演します。右朝のことも忘れないで下さい。
※週刊ポスト2023年4月21日号