ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十一話「大日本帝国の確立VI」、「国際連盟への道4 その7」をお届けする(第1377回)。
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シーメンス事件いや金剛・ビッカース事件の背後には、「汚職の専門家」であった陸軍の法王山県有朋がいたのではないか、というのが私の推測である。歴史学者の先生方は否定するだろう。例によって「史料が無い」とおっしゃるのだろうが、そう言う向きは私が山県を「汚職の専門家」と呼んだ意味がまったくわかっていない。
山城屋和助事件で、山県は危うく失脚するところだったのである。和助の「切腹」そして司法卿江藤新平の「失脚」という望外の幸運によって、山県はまさに「九死に一生を得た」。山城屋がすべての「史料」を焼却してくれたのも助かった。そういう人間がその後の人生でシッポをつかまれるような、つまり史料を残すようなマネをするはずが無いではないか。それが人間というものだろう。ましてや山県を研究すれば誰でもわかることだが、彼は慎重で綿密な性格だ。だからこそ軍略的才能はまったくと言っていいほど無いが、軍政畑で頭角を現わしたわけだ。
それにもう一つ重要なことがある。山県にとっては陸相・海相現役武官制を復活させることは絶対の正義であり、それが彼の大正天皇への忠義でもある。結果的にこの制度は日本を滅亡に導いたが、山県がそれを大日本帝国にとって正しい政策だと考えていたのは何度も紹介したとおりだ。そもそも、この制度は山県内閣のときに成立しているのである。
山県にしてみればせっかく成立させた正しい制度を、事実上廃止にしてしまった政友会そして山本権兵衛内閣はまさに国賊であり、明治を生きた人間の感覚で言えば絶対に放置してはいけない事態なのである。つまり、身体の不調があったとしても万難を排し、どんな手段に訴えても山本内閣は潰さなければいけない。それが維新の荒波を潜り抜けてきた男の感性というものである。
しかし陰謀、つまり時効になっている「単純収賄罪」を起訴できる受託収賄罪に変えることは、専門家でなければできない。おそらくは山県の「なんとしてでも山本内閣を潰せ」という命令(もちろん紙に書くバカはいない)を受けて、金剛・ビッカース事件を一大汚職事件に仕立て上げた専門家がいるはずである。私はその人間に心当たりがある。平沼騏一郎である。
平沼は一八六七年(慶応3)、美作国(現在の岡山県)で津山藩士の子として生まれ上京し、帝国大学法科大学を卒業した。この聞き慣れない大学はのちに東京帝国大学と呼ばれるが、それは西園寺公望の奔走で京都帝国大学が建学されて以降のことで、この当時の帝大は東京に一つしかないのでこう呼ばれた。昔はいまと司法制度が違い、司法省の官僚として採用された男子が判事や検事にも任じられる形だった。いくつかの裁判所で判事として勤務したのち、おそらく肌に合ったのだろう、検察畑に進んだ。問題はそのあとだ。ここで『国史大辞典』(吉川弘文館刊)の「平沼騏一郎」の項から、その後の経歴を抜粋する。
〈この時期日糖疑獄の処理や幸徳事件(大逆事件)の取り扱いで名を上げた。四十四年刑事局長に任ぜられる。大正元年(一九一二)検事総長に補せられ、以後約十年その地位にあった。この間、大正三年のシーメンス事件、翌四年の大浦内相事件、七年の八幡製鉄所事件などで腕を振るった。またこの間、明治四十年に法律取調委員、大正八年には臨時法制審議会副総裁に任命され、数多くの立法、法改正の事業に参画した。〉(以下略。項目執筆者伊藤隆)
平沼の経歴は、これから先も延々と続く。なにしろ首相にまで上り詰めた人物だから。ただし、首相のときにともに反共産主義外交を進めていたドイツが、突然に共産主義の総本山とも言うべきソビエト連邦と相互不可侵条約を結んだことに仰天し、「欧洲の天地は複雑怪奇」という捨てゼリフを残し内閣総辞職したのは、平沼の政治家人生の最大の汚点だろう。また平沼はいわゆる右翼で、右翼団体を主宰したこともあり、元老西園寺からは嫌われていた。ということは、記録には残っていないが山県や桂太郎の腹心だった可能性はおおいにある。
そこで経歴を見ていただきたいのだが、要するに平沼は大逆事件という桂太郎=長州閥によってデッチ上げられた日本最大の冤罪事件の仕掛人だったのである。しかも、その功績を賞せられ検事総長にもなっている。そして、この金剛・ビッカース事件はまさに平沼が検事総長時代の出来事なのである。