大学時代の夢であった女優の道を諦めて進んだのはフジテレビ。バラエティ番組『オレたちひょうきん族』で初代ひょうきんアナを務めた山村美智さん(66)は後に「アイドルアナの草分け的存在」と称された。伝説の人気アナは1985年に退社した後、どんな人生を送っているのか。山村さんが振り返った。
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退社後、フリーアナウンサーとしての仕事が多かったんですけど、司会よりも女優をやろうと思って会社を辞めたので女優業を優先しようと思っていました。司会の仕事はもうしないと、そう決めた時期もありました。
「女優をしたい」という思いがあったのは、大学時代に劇団の『東京キッドブラザース』に所属して女優をしていたからです。フジに入社した時はもうきっぱり諦めて入社したのですが、『オレたちひょうきん族』に出演すると色んな番組に駆り出されまして……。その中にドラマもあったんです。中村雅俊さん主演の『おまかせください、オレの女房どの』(1983年、フジテレビ系)で会社員なのにドラマに出演しました。そこで自分の中に封印した女優魂に火がついてやっぱり演技をしたいと思ったし、アナウンサーとしての仕事は何もかもすべてやったという達成感があったので退社という選択肢を考えました。
当時は今みたいにバラエティと報道が分かれてなくて、選挙特番もやるし『夜のヒットスタジオ』にも出たりとか、色んなことをやらなければいけなかった。1983年にはレコードデビューもしましたから(笑)。それで肉体的にヘトヘトになっていたし、精神的にもボロボロになっていた。けれど、ドラマで演技して「ああ、なんか自分は解放される」と改めて感じたんです。それで私は女優になると決心して、退社しました。
退社してからは基本的に仕事ができなかったです。というのも、今では「フリーアナになります」とおおっぴらに言えるようになりましたが、その頃は言えなかった。これからは主婦業に専念しますとごまかすような感じです。フリーになって1年ぐらいした頃から活動し始めて、フジテレビの夜のニュース番組に起用してもらい、ドラマ『アナウンサーぷっつん物語』(1987年、フジテレビ)という月9作品にも出演できました。
以降はドラマに出るようにはなってきましたけど、TBS が多かったですね。TBS のお昼のドラマや、ドラマ『徹底的に愛は…』(1993年)に出演しました。NHKでは大河ドラマとか。そのうちにドラマの制作現場に行くと、衣装さんに「山村さんてフジテレビのアナウンサーだったんですって?」と言われることも。芸術座の舞台に立ったり、少年隊のミュージカルに出たり。前田美波里さんとタップダンスのミュージカルで踊ったこともあります。
そうした中で、映画で共演した女優さんから「一緒に芝居をやりましょうよ」と誘われたんです。彼女が脚本を書いて私が演出をしてということだったんですけども、少し舞台には難しい部分があったので私が新たに脚本を書いて、彼女と私の 2人芝居にしました。その舞台『私とわたしとあなたと私』を2002 年に公演したら好評で、翌年には再演しました。
その直後、私は夫の赴任で渡米しニューヨークへ。現地に在住する日本人の奥様たちがその舞台をニューヨークで見たいと言ってくださって。やっぱり英語でやるべきだろうと思い、現地のプロダクションに持ち込み、脚本家に入ってもらい、リーディングできるまでに1年半ぐらい、そこから本番までも1年以上かかりました。完成した公演にはニューヨークのアメリカ人がたくさん見に来てくださいました。