ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十一話「大日本帝国の確立VI」、「国際連盟への道4 その9」をお届けする(第1379回)。
* * *
この大正政変あたりから日本の新聞は国民の「耳目」という本来の役割を完全に忘れ、「アジテーター(煽動家)」として活動するようになってしまった。念のためだが、この時代は雑誌もあるがマスコミの主体はあくまで新聞で、当然ラジオもテレビもまだ存在しない。では、新聞がなぜそうなってしまったかと言えば、そうしたほうが新聞が売れるからだが、始末の悪いことに新聞人あるいは記者たちはそれを商売優先の悪行とは考えていなかった。
むしろ腰の重い政府を叱咤することは「激励」であり、民衆の願望を果たすことにつながる「正義」だと考えていた。ちょうどいまの多くのマスコミが、なにがなんでも政府を批判することが正しいと考え、正確な情報の伝達というマスコミ本来の使命をなおざりにしているのとよく似ている。
筆者は、残念ながら日本人はあまりに情緒的すぎて本来論理的合理的な思考を優先しなければいけないマスコミ報道および評論には向いていない、と考えている。言霊に左右されて危機管理ができないのがその典型的な事例だが、この件についてはまた考察する機会もあるだろう。
とりあえず、話を山本権兵衛内閣崩壊の時点に戻そう。山本内閣が総辞職したのは、前回述べたように一九一四年(大正3)四月十六日だが、その前年の一九一三年(大正2)九月五日、まだ内閣が維持されていた時代に外務省の局長が右翼青年に刺され、翌日死亡するという事件が起こっている。
阿部守太郎(1872~1913)という、欧米列強との不平等条約改定の実務にあたったべテラン外交官で、『国史大辞典』(吉川弘文館刊)は西園寺内閣下における外務省政務局長時代の特筆すべき業績として、「満蒙問題は領土的企図を排して平和的伸張をはかり、中国との親善、露国・英国などとの協調、本施策遂行のため軍部その他を押えて外交の統一に努めんとする長文の『外交政策の基本方針』を執筆」していることを挙げている。
つまり阿部は、山県有朋そして桂太郎を中心とする陸軍の強硬路線に対する、伊藤博文そして西園寺公望の平和協調路線の具体的政策立案者でもあったのだ。おそらく西園寺は「右腕」をもがれるような心地がしたに違いない。どんなことでもそうだが時代が大きく動くときは、そのきっかけとなる小事件が必ずある。
「一葉 落ちて天下の秋を知る」のように、夏の間にはあれほど生い茂っていた木の葉が、秋から冬にかけて全部落ちるのが落葉樹の宿命だが、そのきっかけは最初の一葉が落ちることである。この事件は外務省の高級官僚が殺害されたのだから「小事件」と表現するのはいささか問題があるかもしれないが、少なくとも普通の年表には載っていないから研究者もあまり注目していないと言える。しかし私に言わせれば、やはりこの事件はその後の日本の方向性を定めた「一葉」だろう。
どんなことでもそうだが、物事には必ず「躓き」というものがある。人間の世界で政治なり外交なりが、なんの障害も無く一直線に進むことなどあり得ない。しかし、問題はその躓きが単なる躓きで終わるか、それをきっかけに方向性が変わってしまうかである。私がこの事件をどのように考えているか、もうおわかりだろう。それを語る前に、そもそもなぜこの事件が起こったか原因に触れておこう。