ライフ

【逆説の日本史】山中峯太郎が陸大を中退し中国革命戦線に身を投じた「やむを得ぬ」事情

作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)

作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十一話「大日本帝国の確立VI」、「国際連盟への道4 その10」をお届けする(第1380回)。

 * * *
 せっかく優秀な成績で陸軍大学にまで進学しながら、民間に転進するとは「なんともったいない」と、当時の人々は考えた。陸大に行けるのは、当時の陸軍軍人のなかでもほんの一握り。そして行けば間違い無く将官(少将以上)になれるが、行かなければ陸軍士官学校を出ていても大佐止まりである。実際、陸士の一期先輩(卒業年次で言えば二期上)の東條英機は、陸軍大将そして内閣総理大臣にもなった。

 山中峯太郎は在学中から東條ときわめて親しかった。のちに東條のブレーン役も務めている。ちなみに最下級の二等兵から始めると、どんなに優秀でも少佐止まりであり、その「象徴」がマンガ「のらくろ」の主人公であったことはすでに述べたとおりだ。だが「当時の人々の気持ちになって考える」と、山中が陸軍のエリートコースを辞退した理由について「やむを得ない」と思わせる事情があった。

 脚気である。山中は脚気のために陸士を一年休学せざるを得ず、卒業年次が一期遅れたのである。いまでは誰も恐れない脚気という病気だが、明治から大正にかけてはきわめて厄介な病気であったことは『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』の「軍医森林太郎の功罪」の章で詳しく述べたところだ。結論だけ繰り返せば、森の「妨害工作」によって脚気の克服はとくに陸軍において遅れに遅れた。

 もしこれが無ければ、陸軍の出世コースを山中は突っ走っていたかもしれない。山中の伝記を見ると短期間で脚気を克服したように書いてあるが、実際には根本的治療法は無かったのだから、その後も悩まされていた可能性が高い。軍人の任務というのは、常に日常的なものが求められる。時々に立派な功績を挙げても日常の勤務に精励できなければ軍人の資格が無いと考えるのが、当時の常識である。

 そう考えれば、山中が最終的にめざした作家という新しい職業は、まったくの個人的作業だから日常のコンディションに合わせて仕事内容を調整できるが、日々のルーティンが決まっている軍人はそうはいかない。山中が帝国陸軍軍人を辞めざるを得なかったのは、陰にそういう事情があったのだと私は推測している。

 もちろん、それは脚気がいかに厄介な病気であったかという当時の常識を抜きにしては語れないのだが、政治や経済だけの専門家はそれを忘れてしまうというか最初から気がつかない。

 歴史の研究は難しい。分野を分けて専門化するなどもってのほかで、むしろあらゆる分野に精通するという意欲を持たねばならない。もちろんそれはきわめて困難なことなのだが、たとえば山中峯太郎という人物については脚気だったという歴史的事実が伝えられているのだから、最低限当時の人々が脚気患者とは通常どのような考え方をし、それに基づいてどのように行動したかを意識しなければならない。決して難しいことでは無い。

 たとえば、今年二〇二三年にある人物がきわめて異常な行動に走って自殺したとしよう。その原因を調べたところ、本人は悪性のガンで余命幾ばくも無く自暴自棄となり異常行動の原因はそれだった、などということはじゅうぶんにあり得るだろう。しかし、いまから百年後にはどんなガンも克服され、ちょうど現在脚気や結核がそうであるようにほとんどの人が恐れない、少なくとも死を連想するような病気では無くなるだろう。

 だから、百年後の研究者はその点を注意しなければいけない。つまり、二〇二三年の時点では「そうでは無かった」という常識に基づく考察が必要だ。同じことで、脚気というのは繰り返すが、当時は治療法の無い不治の病だったのである。それに山中は取り憑かれていたのだ。そして、そういう山中にとって帝国陸軍軍人としてのルーティンを伴う軍務に就くことは困難だが、軍人としての本分である戦いを通じて国に報じるという姿勢を貫きたいなら、孫文の革命軍に参加するという手がある。

 中国が孫文の下に近代化することは、多くの日本人が望んでいたアジアの大義を推進する道であり、なにより中国人民のためにもなる。そして重要なことだが、革命軍兵士として戦うことは職業軍人のようなルーティンを求められる仕事では無い。それを考えれば、陸軍大学を中退して中国革命戦線に義勇兵として参加するという、当時の人から見たらきわめて「異常な行動」もそれなりに説明がつくと私は思う。

 念のためだが、「そんなことは史料に無い」という形ですべてを否定する人々に言っておく。軍人にとって病気に負けるということは、それだけで恥なのだ。だから誰でも本心を吐露する日記にさえも、軍人的考えで言えばそういうことを書いてはいけない。たとえば「脚気がひどくて軍務が果たせない」などと書けば、それは武人として病気に負けたという恥を晒すばかりで無く、陛下からさまざまな恩恵を受けた(たとえば士官学校の学費はタダ)のに、帝国軍人としての義務を果たせなかったことについて言い訳をした、と誤解される恐れもある。プライドの高い人間ほど、そんなことはしないものなのである。

関連キーワード

関連記事

トピックス

歌舞伎俳優の中村芝翫と嫁の三田寛子(右写真/産経新聞社)
《中村芝翫が約900日ぶりに自宅に戻る》三田寛子、“夫の愛人”とのバトルに勝利 芝翫は“未練たらたら”でも松竹の激怒が決定打に
女性セブン
胴回りにコルセットを巻いて病院に到着した豊川悦司(2024年11月中旬)
《鎮痛剤も効かないほど…》豊川悦司、腰痛悪化で極秘手術 現在は家族のもとでリハビリ生活「愛娘との時間を充実させたい」父親としての思いも
女性セブン
ストリップ界において老舗
【天満ストリップ摘発】「踊り子のことを大事にしてくれた」劇場で踊っていたストリッパーが語る評判 常連客は「大阪万博前のイジメじゃないか」
NEWSポストセブン
紅白初出場のNumber_i
Number_iが紅白出場「去年は見る側だったので」記者会見で見せた笑顔 “経験者”として現場を盛り上げる
女性セブン
弔問を終え、三笠宮邸をあとにされる美智子さま(2024年11月)
《上皇さまと約束の地へ》美智子さま、寝たきり危機から奇跡の再起 胸中にあるのは38年前に成し遂げられなかった「韓国訪問」へのお気持ちか
女性セブン
野外で下着や胸を露出させる動画を投稿している女性(Xより)
《おっpいを出しちゃう女子大生現る》女性インフルエンサーの相次ぐ下着などの露出投稿、意外と難しい“公然わいせつ”の落とし穴
NEWSポストセブン
田村瑠奈被告。父・修被告が洗面所で目の当たりにしたものとは
《東リベを何度も見て大泣き》田村瑠奈被告が「一番好きだったアニメキャラ」を父・田村修被告がいきなり説明、その意図は【ススキノ事件公判】
NEWSポストセブン
結婚を発表した高畑充希 と岡田将生
岡田将生&高畑充希の“猛烈スピード婚”の裏側 松坂桃李&戸田恵梨香を見て結婚願望が強くなった岡田「相手は仕事を理解してくれる同業者がいい」
女性セブン
電撃退団が大きな話題を呼んだ畠山氏。再びSNSで大きな話題に(時事通信社)
《大量の本人グッズをメルカリ出品疑惑》ヤクルト電撃退団の畠山和洋氏に「真相」を直撃「出てますよね、僕じゃないです」なかには中村悠平や内川聖一のサイン入りバットも…
NEWSポストセブン
注目集まる愛子さま着用のブローチ(時事通信フォト)
《愛子さま着用のブローチが完売》ミキモトのジュエリーに宿る「上皇后さまから受け継いだ伝統」
週刊ポスト
イギリス人女性はめげずにキャンペーンを続けている(SNSより)
《100人以上の大学生と寝た》「タダで行為できます」過激投稿のイギリス人女性(25)、今度はフィジーに入国するも強制送還へ 同国・副首相が声明を出す事態に発展
NEWSポストセブン
連日大盛況の九州場所。土俵周りで花を添える観客にも注目が(写真・JMPA)
九州場所「溜席の着物美人」とともに15日間皆勤の「ワンピース女性」 本人が明かす力士の浴衣地で洋服をつくる理由「同じものは一場所で二度着ることはない」
NEWSポストセブン