【書評】『シネドラ建築探訪』/宮沢洋・著/日経BP、日本経済新聞出版/2640円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)
『ロスト・エモーション』という映画がある。2017年に公開された。リドリー・スコットがてがけたSF作品である。戦争をはじめとする諸悪の根源は、人間のいだく感情にある。この作品は、そのエモーションが人工的に除去されるディストピアを、えがいている。
興味深いのは舞台設定で、日本の現代建築が、いくつかとりあげられていた。たとえば、感情がきえない人間を隔離する施設に、狭山池博物館がつかわれている。事情通には言うまでもない。安藤忠雄が設計をした建築である。このエピソードは、安藤建築のある一面をあざやかに物語る。建築評論の文章を読まされるより、よほど腑におちる。人間の情動を否定する施設に安藤作品、なるほどさもありなん、と。
吉阪隆正の設計した大学セミナーハウス本館は、テレビや映画にひっぱり凧であった。私は『ウルトラマン』や『仮面ライダー』での光景をよくおぼえている。ごく最近、これが『総理の夫』という映画で、浮世ばなれした男の「鳥類研究所」になったらしい。そうか、そういう使い途もあの建物にはあったんだと、感心した。
建築には、はたすべき役割がある。しかし、竣工後の建物は、それとかかわりなく、世間からべつの印象をいだかれがちである。映画やテレビの扱いは、その受容ぶりをしめす好例となる。建築雑誌ではたらいてきた著者は、建築界の内情につうじている。これは、そんな著者が数多くの映像作品を見て、斯界と世間の橋渡しをこころみた一冊である。
建築家の仕事には、べつの意味で、社会との妥協をせまられる部分もある。実験的な建築案は、使い勝手や予算との葛藤をしいられやすい。表現の刃がそがれかねないそんな過程も、テレビドラマなどには好素材を提供する。
たとえば、『みんなのいえ』や『大豆田とわ子と三人の元夫』に、話の山場をあたえていた。この本は、ドラマなどをとおして、建築家という職能を考えさせもする。
※週刊ポスト2023年6月2日号