【書評】『ソングの哲学』/ボブ・ディラン・著 佐藤良明・訳/岩波書店/4180円
【評者】与那原恵(ノンフィクションライター)
今年四月に来日公演を行なったボブ・ディラン。二〇二〇年発売の最新アルバム「ラフ&ロウディ・ウェイズ」の収録曲「最も卑劣な殺人」は十六分五十四秒にもおよぶ。ジョン・F・ケネディ米大統領暗殺事件を契機に変質したアメリカ社会を歌いあげ、一九六〇年代を象徴する楽曲、映画、小説などが登場。「Play~」(~という曲をかけてくれ)と繰り返すのは時代への鎮魂なのだろうか。
本書は、ディランがポップス、ブルース、カントリー、ロックなど、過去百年ほどの「ソング」六十六曲を、深い洞察のもと、その背景と歴史を語る。音と歌詞を解き明かし、逸話を交えてミュージシャンの光と影も描く。約百五十点の図版がすばらしく、ソング誕生の時代がリアルに迫ってくる。
自動車工場の労働者、移民、先住民、放浪者、銃社会、宗教、ギャンブル、そして戦争……。ディランの鋭い言葉の一撃があり、悲しみや嘆きも、辛辣な皮肉も、戸惑うようなジョークもある。
「ブルー・スエード・シューズ」はプレスリーではなく、カール・パーキンス(この曲の作者)を取り上げ、ついでにといった感じで「靴を歌ったソング」を羅列。「泣いた白いちぎれ雲」を泣き声で歌ったジョニー・レイの項では「泣き喚いたレコードたち」なるリストを添えている。ディランの見識に驚愕しつつも笑いころげた。そうして浮かび上がるのは、ディランの音楽を培った豊かな系譜、そしてアメリカの深淵である。
日本では江利チエミが歌った「家へおいでよ」を作ったのは、「人間喜劇」などで知られる作家ウィリアム・サローヤンと従兄弟だ。原詞には彼らのルーツのアルメニア(十九世紀末から二十世紀初頭、オスマン帝国による弾圧から逃れ世界各地に離散した)の文化が織り込まれており、果物の名が多く登場する理由を知った。
佐藤良明の翻訳が鮮やかだ。版元のWebサイトでは佐藤の読み応えある補注と、何と! 本書に登場するすべてのソングの動画が見られる。すごいぞ、岩波書店。
※週刊ポスト2023年6月2日号