“白装束集団”騒動からちょうど20年。渦巻き模様のステッカーがベタベタと貼られた白いワゴン車の車列などがテレビや新聞・雑誌で連日報じられ、さまざまな凶悪事件を引き起こしたオウム真理教を想起させ視聴者・読者を不気味がらせた。あの騒動は何だったのか。この1月に出版された『白装束集団を率いた女──千乃裕子の生涯──』(論創社)は、著者の金田直久氏が丹念に資料を読み込み、関係者に取材し、白装束集団を率いた千乃裕子氏(2006年に逝去)と集団の実態に迫った渾身のノンフィクションだ。金田氏に話を聞いた。【前後編の後編。前編から読む】
* * *
教祖・千乃裕子氏の理解できかねる言動に、なぜ白装束集団の人たちは付き従ったのか。千乃氏の何が惹きつけたのか。そしてそもそも、どんな人だったのか。
千乃氏の本名は増山英美。1934年1月26日、生橋英美として京都で生まれた。父は市役所勤めで、30代後半のとき16歳年下の母と、当時にしては珍しく恋愛結婚をした。英美は一人っ子で、両親に大事に育てられたが、厳格な父は英美に手を上げることもあったという。
そんな父親の死が転機となった。1942年、粟粒結核で亡くなり、英美は戦時下で未亡人の連れ子の身分となり、精神が不安定になっていった。食糧難もあり、国民学校初等科(小学校)を終える終戦後すぐの頃に島根の農家に養女に出されると、家出をし、自殺願望を抱くようになってしまった。
「英美は、彼女を持て余した養家から実母の元へ戻され、その後は大阪府池田市の、阪急電鉄石橋駅近くの商店街の一角にある木造二階建てで暮らしていました。英美の母は会計士と再婚。
その後、いろいろあって増山姓になりました。継父のおかげで、英美は大阪で最初の女学校・梅花高等女学校、そして梅花女子短大英語科に通い、当時としては恵まれていましたが、英美は継父と折り合いが悪く、ケンカばかりしていたそうです」(金子氏、以下同)
短大卒業後、大阪で大きな貿易会社に就職。しかし、人間関係のトラブルなどでまた心身のバランスを崩し、30歳前後から外資系企業を転々。秘書や英文速記者の仕事をしていたようだが、30代後半には会社勤めをあきらめ、自宅で女子高生に英語を教えるようになった。そこが千乃正法会の“原点”となっていった。