【書評】『主権者を疑う ──統治の主役は誰なのか?』/駒村圭吾・著/ちくま新書/1012円
【評者】岩瀬達哉(ノンフィクション作家)
敗戦までの明治憲法では、主権は天皇にあった。民衆を従えてきた統治の歴史を、GHQはリセットして日本国憲法を誕生させ、国民に主権を与えたのである。そのせいか、「国民」の扱いがふだんは雑だ。選挙のときだけへつらう政治家はもちろんのこと、当の「国民」ですら、無自覚のまま長いものに巻かれがちとなる。
憲法学の文脈でみる「国民」とは、「主権者」「有権者」「市民」を「ひとりで三役」担っている。その土台の上に「すべて国民は、個人として尊重される」とする「見取り図」を著者は掲示してみせる。そもそも「主権者」とは「憲法制定権力」を持ち、至高性ある神に代わる。つまり自らを律する法の秩序の創造者であり、ときに改憲の判断者ともなる。「取り扱い注意」案件を手にしているのだ。改憲論議をたちあげた安倍首相もこう繰り返していた。
「最終的に決めるのは、主権者たる国民の皆様であります」
そこで「有権者」として、民主主義の次元に立ってみる。すると投票率は低く、一部の利益集団が代表者を選んでいるのに気づく。また理性を欠いた民衆が「衆愚」となる弱点も孕む。だが「衆愚を弱点として突かれ続けることこそが民主制のダイナミズムを保証する」と捉える著者は、傲慢な政治を相手に、憲法12条が保障する自由と権利を、「不断の努力」で保持する「市民」であるように説く。
かつて日米安保条約が違憲であるかを問われた砂川判決で、高度の政治性を有する場合には司法的判断を行わない、とする「統治行為論」が生まれ、基地へ侵入した市民運動家に罰金刑を科した。しかし有罪判決を下した差戻審は、市民運動に将来を託し、こう判示していた。
「反対闘争は、憲法的疑義を晴らすために国民がいわば当然になしうる行為であり、保障された自由に由来する憲法的な正当性を有するものであった」
変わるべきは憲法よりもまず、権利を自覚しない国民自身なのだ。
※週刊ポスト6月30日・7月7日号