ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十一話「大日本帝国の確立VI」、「国際連盟への道4 その15」をお届けする(第1385回)。
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『東京日日新聞』が、あきらかに「海軍主体の山本権兵衛内閣は軟弱。この際、陸軍の主張に沿って軍事的強硬手段によって中国問題を解決すべし」という論調で紙面を作った結果、唯一同じ紙面で「あくまで外交手段で平和裏に解決すべきだ」と主張していた外務省政務局長阿部守太郎は、右翼青年に刺殺された。
もちろん推測ではあるが、犯人たちはこの『東京日日新聞』の記事を読んで「阿部は殺すべきだ」と考えた可能性が非常に高いことはわかっていただけるだろう。現在、若い人は宅配の新聞を取らなくなったというし、電子版を契約している人もそれほど多く無い。スマホのニュースサイトを見ればじゅうぶん、というのがいまの若者の考え方だろう。
昔は違う。テレビもラジオも無い時代、雑誌と違って新聞は毎日の情報が得られる貴重なソースであった。またこれまでさんざん述べたように、この時代の新聞はあきらかに過激な方向へ国民を扇動する体質があった。
阿部談話が載った一九一三年(大正2)九月五日付の『東京日日新聞』の紙面は、それ以外の部分で名物コラム「近事片々」も含めて「阿部の主張は悪である」と断じていた。これを読めば、「純粋な若者」ほど「日本のためにも中国のためにも、阿部は討つべきだ」と思うだろう。そして実際そうなった。阿部暗殺の翌日九月六日の「近事片々」も、次のような調子である。冒頭は再び「南京」というキーワードだ。
〈▲南京 に於る虐殺邦人更に一名行方不明數名を出すと張勳の暴状愈容赦不成
▲掠奪 全市に及び虐殺千餘名に上ると文明の世此暴虐を敢てする張は人道の敵
▲袁世 凱卻て彼が功を録し江蘇都督に任じ勳一位に敍す乃其暴状を是認する也
▲北京 政府の帝國を輕侮するは正に顯然たり此の勢を馴致せるは抑何人ぞや
▲露國 當局例に依りて事件を重大視せずと放言す不謹愼沒常識驚くに堪へたり
▲國旗 侮辱の如きも猶研究の餘地ありと當局述云ふ是では宛前北京政府の言草〉
まだまだ続くのだが、このあたりにしておこう。要するに、主張は変わらない。袁世凱が張勲を都督に任じ勲一等を与えたのだから、その張が南京における掠奪および虐殺の責任者である。また北京政府の代表である袁世凱も当然その責任は免れない、と言っている。
また例によってロシアは「大した事件じゃない」などと放言しているし、「国旗侮辱事件(南京事件において、日本の民間人が身体に日章旗〈日の丸〉を巻き付けていたのに射殺されたこと)」についても外務当局は「(これが国旗侮辱事件と言えるかどうか)研究の余地がある」と言っているが、それは北京政府の言い草(つまり言い逃れ)ではないかと非難している。この「研究の余地」については、外務省側の見解が同じ紙面に載っているので紹介する。
〈國旗凌辱と云ふも公館軍艦等に掲揚せるものと事理を異にし述虐殺掠奪の如きも前後の事情を閲明せざれば遽に強硬なる態度に出づるを得ず殊に列國との關係もあり支那分割の端を開くの誹を受るも得策に非ず斯の如き事件を以て對手方一應の辯解も態度をも究めずして直に出兵するが如きは決して文明國の採るべき手段に非ず〉
いたって良識的な意見と言えよう。国旗といっても、政府公館や軍艦に掲揚されていた公的なものとは違い、一民間人が所持していたものを銃撃したからといって、国旗侮辱事件とまで言い切れるかというのが外務省の見解で、また調子に乗って戸水寛人の主張するような軍事出兵を伴う強硬な態度に出れば、欧米列強がふたたび乗り出してきて中国分割のきっかけとなってしまう可能性もある。とりあえず責任の所在ははっきりしているのだから外交交渉によって解決すべきだ、というのが外務省そして政府つまり山本権兵衛内閣の基本方針であった。