【書評】『ものまね鳥を殺すのは アラバマ物語[新訳版]』/ハーパー・リー・著 上岡伸雄・訳/早川書房/3960円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
日本では1960年代の映画公開時から『アラバマ物語』として知られてきた名作の新訳である。今回あえて原題に忠実な邦題に変えたことは良かったと思う。差別と偏見が渦巻く1930年代の米国南部アラバマ州の町を舞台にした本作の原題To Kill a Mocking Birdとは、「ただ歌っているだけの無害なマネシツグミを撃つのは罪だ」という比喩表現なのだ。
正義の弁護士を父にもつスカウト・フィンチが語り手となり、6歳当時のできごとを回想する形で物語は進行する。父アティカスは世のために働きづめで、母はすでに他界、兄のジェムもまだ幼く、黒人女性の料理人が家の面倒をみている。
兄妹は想像力が豊かで、スカウトは生まれたときから文字が読めたというほどの異能の子だ。町にはブーと呼ばれ家に幽閉されている男性がおり、正気が疑われる彼の家に子供たちが接近を試みたりする。
そんななかで最貧層の白人女性のレイプ容疑で黒人青年が起訴される。このトム被告の弁護をアティカスが引き受けたことでフィンチ一家は町の人びとの非難を浴びもするが、被害女性は左手で殴られたはずだという論証に成功。トムの罪は晴れると思われたが……。
本作は映画版の印象から裁判小説のように思われているかもしれないが、今回の新訳では、子供たちが見つける日々の小さな喜びや、町の人びととの交流、そしてブーとの関わりなど焦点を多面化し、物語が鮮やかに立ちあがってくる。
トムの裁判からもう一つの事件が発生。その終盤に大変な読みごたえがあるのだ。意外な展開が続き、公正の人アティカスの正義と倫理はここで大変な試練にあう。
ラスト近く、スカウトがブーを家に送っていき、そのポーチに立つシーンは本作中の白眉と言える。「ものまね鳥を殺すのは」というフレーズが深く胸に迫ってくるだろう。結末の是非はぜひ本作を手にとって考えてみてほしい。黒人差別を告発するだけの小説ではないのがわかるだろう。
※週刊ポスト2023年8月4日号