今年は、「名門」と呼ばれる高校の数多くが甲子園出場を逃した。春夏あわせて甲子園出場76回を誇る京都・龍谷大平安もその一つだろう。そんな龍谷大平安が最も甲子園を沸かせたのが、ビッグマウスで話題を集めたエース左腕・川口知哉を擁する1997年だ。川口が当時の思い出を振り返った。(文中敬称略)
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高校野球の草創期から、絶大な強さを誇った京都の平安(現・龍谷大平安)にも昭和の後期から平成初期にかけて、甲子園から遠ざかる低迷があった。名門の再建を託されて1993年に指揮官となったのが原田英彦(63)で、その2年後、入学してきたのが川口知哉(43)だった。就任から30年が経過した今、原田が振り返る。
「あの学年は11人しか入部しなかったんです。その中で、川口はエース、4番、キャプテンを担った。責任感の強い子で、彼ほど練習した子はいません。教え子で一番です。平安時代も、そして指導者となった現在も、あいつが誰かに対して怒っているところは見たことがありません」
1年春の京都大会からマウンドに上がり、原田により鍛え抜かれた左腕は、3年生だった1997年春に平安を17年ぶりの選抜出場に導き、そして夏も7年ぶりの選手権大会に出場、準優勝に輝く。
最後の夏、2回戦の高知商(2年生に藤川球児がいた)に完封勝利を飾ったあと、記者の質問に誘導されるように「次は完全試合を達成します」と口にしたことをきっかけにして、「川口=ビッグマウス」の印象を抱く人はいまだに多い。本人のインタビューに入る前に、川口の人柄が伝わる知られざるエピソードを原田が口にした。
「味方が攻撃の時、二死になると投手はキャッチボールをしますよね。川口の場合、ベンチが三塁側の時は外野寄りから投げて、一塁側の時はベンチ寄りから外野の方向に向かってキャッチボールをする。彼は左投げですから、スタンドを見上げて、彼女の存在を確認しながら投げていることに僕が気付いたんです。可愛らしいところがあるでしょ。私は教え子に、『彼女がいるなら、球場に呼びなさい』と伝えている。彼女が球場にいたら、かっこ悪いところを見せられないじゃないですか。そうした彼女の存在も『力にせえ』と(笑)」
川口が高校2年生の時、中学3年生だった彼女とのちに結婚する。ふたりの間に生まれた長男はもう大学1年生だ。
1997年のドラフトで4球団の競合の末、オリックスに入団した川口はプロ入り後、1年春に左肩を痛め、その後はイップスにも苦しみ、期待された働きはできなかった。2004年に戦力外通告を受け、トライアウトに参加するも、声は掛からず引退を決断する。