ノンフィクション作家の稲泉連さんは、幼少の頃の一時期、母と共にサーカスのテントに暮らした経験を持つ。母・久田恵さんも同じくノンフィクション作家であり、物書きとしての母を見て育ったということもあるのだろう、10代から執筆活動を始めた稲泉さんは、44歳を迎えた今年、幼少期のサーカスでの記憶とたどる著書『サーカスの子』を上梓した。
『サーカスの子』は、当時の関係者に会い、その言葉を聞きながら、自身の心の風景を確認していく物語だ。稲泉さんはサーカスにいた日々を振り返り、そこを「夢と現(うつつ)が混ざりあった“あわい”のある場所」と表現する。
漢字の「間」に“あわい”という読み方がある。「あいだ」という意味の他に、「合う」を語源とした“あわい”の語は、“何かと何かが重なり合った場所、空間”といった意味を持つ。あるいは、音の響きから「淡い」の字が思い浮かぶ人もいるかもしれない。実際、インタビュアーを務めた私もそうだったが、稲泉さんが「あわいのある風景」と振り返るサーカスの記憶とは、どんなものだったのだろうか。
「自分の記憶をよく耕すこと」
今から40年前、当時4歳だった稲泉さんは母と一緒に、キグレサーカスのテントで暮らし、芸人やその家族たちに囲まれて過ごした。母はここで炊事係として働いた。1年弱という短い期間だったが、サーカスでの生活は、その後の母子の人生に少なくない影響を与えた。
母・久田さんはその後、当時のことを改めて取材し、著書『サーカス村裏通り』(1986年)にまとめた。同じテーマに向き合うことは、自らの記憶と向き合うことでもあった。
「この本(サーカスの子)の中でも引用したのですが、詩人の長田弘さんが『記憶のつくり方』という詩集のあとがきで、〈自分の記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う〉と語っています。僕にとって、サーカスの記憶というのは、長田さんの言う、耕すべき“記憶の庭”、のようなものなのだろうと、今回の執筆を通して改めて感じています」
稲泉さんが3歳になる頃、両親は離婚した。久田さんがサーカスに行こうと思い始めた当時、彼女は東京の広告代理店で契約社員として働いていた。他にも就職情報誌の仕事もしており、収入はそれなりに安定していた。しかし、1年ごとに契約を延長する立場は幼い子を抱えるシングルマザーにとって、決して安心できるものではなかった。
「あと、僕が保育園に行きたがらないとか、理由はいくつかあったようですが、子供と一緒に生活しながら働ける場所を探していて、ふと思いついたのがサーカスだったようです。写真家の本橋成一さんが長年の取材で撮りためた写真集『サーカスの時間』が、母の愛読書だったことも大きかった。その巻末書かれていた本橋さんの電話番号に連絡して、事務所を訪ねることになったのです」