ベストセラー作家・橘玲氏は、新刊『世界はなぜ地獄になるのか』で、複雑になりすぎた現代社会について「誰もが自由に生きられる社会は、こんなにも不自由だ」と説いている。その象徴が「キャンセルカルチャー」だ。ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の基準に反した言動をした者の社会的存在をキャンセル(抹消)しようとする運動のことだが、SNSなどでは特定の対象が徹底的に叩かれる。その背後にある現代社会の病理とは──。橘氏に聞いた。【前後編の後編。前編から読む】
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キャンセルカルチャー現象は、「広義」と「狭義」に分けるとわかりやすいと思います。広義のキャンセルカルチャーは、直感的に許せないと感じた相手を匿名で一斉に批判し、炎上させること。日本で起きているキャンセルの大半はこのパターンです。
一方、狭義のキャンセルカルチャーは、これまで社会正義を掲げる側だったリベラルな知識人が標的になる新しい現象です。『ハリー・ポッター』の著者で女性の権利擁護に取り組んできた作家J・K・ローリングが、TERF(ターフ:トランス排除的ラディカルフェミニスト)のレッテルを貼られてトランスジェンダー(体の性と心の性が一致していない状態にある人)の権利のために闘う活動家からキャンセルされたケースが代表例です(この複雑な背景については新著をお読みください)。
日本の場合、道徳エンタテインメントとしてのキャンセルばかりで、狭義のキャンセルカルチャーはまだそれほど目立ちません。その理由として、そもそも「日本人は差別に安住してきた」ことがあると思います。日本では、「リベラル」を自称する組織が差別の主体になっていたりするのです。
わかりやすいのが労働組合でしょう。正社員と非正規の極端な待遇の違いは「身分差別」ですが、「あらゆる差別に反対する」はずの労組は正社員の既得権だけを守ろうとしてきた。親会社からの出向と子会社の社員、本社採用と現地採用で、同じ仕事でも給与や待遇が異なるなど、日本企業は重層的な差別によって成り立っています。
それにもかかわらず、リベラルなメディアや知識人は、「日本的雇用を守れ」とか「グローバル資本主義による雇用破壊を許すな」といって、この明らかな差別をずっと無視し、隠蔽してきました。
日本では欧米のように人種問題や移民問題が深刻化していないということもあるでしょうが、日本人がアイデンティティ問題に鈍感なのは、差別が当たり前だと思っているからです。とはいえ、日本も世界の潮流から無縁ではいられませんから、本格的なキャンセルカルチャーがこれから到来することになるでしょう。
「自分らしく生きられる社会をつくりたい」というリベラルの「ユートピア(天国)」運動から、「いつ自分が排除され、社会的に抹消されるかわからない」というキャンセルカルチャーの「ディストピア(地獄)」が生まれました。私たちは、天国と地獄が混然とした「ユーディストピア」を生きていかなくてはなりません。
イギリスの政治・社会評論家ダグラス・マレーは著書『大衆の狂気』で、いまや「文化全体に地雷がしかけられている」と述べています。だとすれば、あえて地雷を踏む勇気のある人以外は、“地雷原”に近づかないようにするしかありません。
こうして、有名人はSNSで個人的な意見を控えるようになりました。「言論の自由」の抑圧は健全ではありませんが、キャンセルの標的にされたときの取り返しがつかない損失を考えれば、投稿するのはパブリシティとネコの写真だけにするのが、平穏に人生を送る秘訣かもしれません。
(了。前編から読む)
【プロフィール】
橘玲(たちばな・あきら)/1959年生まれ。作家。国際金融小説『マネーロンダリング』『タックスヘイヴン』などのほか、『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『幸福の「資本」論』など金融・人生設計に関する著作も多数。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞受賞。リベラル化する社会をテーマとした評論に『上級国民/下級国民』『無理ゲー社会』がある。最新刊は『世界はなぜ地獄になるのか』(小学館新書)。
※週刊ポスト2023年8月18・25日号