終戦から今年で78年。戦時を知る世代も高齢となり、その数は年々減っている。後世にどのように戦争と平和を伝えていけばいいのか──軍人の家系に育った音楽評論家・湯川れい子氏(87)と、これまで500人以上の元軍人・遺族にインタビューをしてきたジャーナリスト・神立尚紀氏(60)が、貴重な思い出と証言を交えて語り合った。【前後編の前編】
戦死した兄の口笛
神立:お兄様の湯野川守正さんには生前何度もお話をお聞かせいただき、大変お世話になりました。本日はお会いできて、本当に光栄です。
湯川:私も嬉しいです。15歳上の次兄・守正は私にとって男性として一番魅力的な存在でした(笑)。
神立:大変仲がよかったとお聞きしています。
湯川:私には兄が2人いましたが、長兄と次兄とは、性格がぜんぜん違いましたね。
神立:一番上のお兄様との思い出が、湯川さんが音楽の道を歩むきっかけになったそうですね。
湯川:はい。昭和19年4月に海軍大佐だった父が亡くなり、その年の6月には18歳上の長兄に赤紙が届いて。長兄は戦地に行く直前、当時住んでいた家の庭に防空壕を掘っていってくれたんです。3日間泥まみれになって掘る兄を、幼い私は母と庭にゴザを敷いて見ていました。
神立:お母様は病弱でいらっしゃったとか。
湯川:はい。母と私は兄の休憩のたびに手拭いを水で濡らしたり、お茶や梅干しを出したりしていました。長兄は穴を掘りながら、私を退屈させないためか、童謡『めえめえこやぎ』などを歌ってくれて。その合間に、すごくきれいな口笛を吹いていたんです。それで「その曲は何ていう歌ですか」と聞いたら、「僕がつくった歌だよ」って。
神立:上のお兄様はその後、フィリピン・ルソン島で戦死してしまわれる。
湯川:そうなんです。ところが終戦後、驚きの体験をします。中学生になった私が発熱して寝込んでいたとき、母が本ばかり読んでいるとまた熱が出るから音楽を聴いていなさいと、木製の大きなラジオを枕元に置いてくれて。でも当時は音楽といっても浪曲ばかりで。仕方なく進駐軍放送を聴いていたら、初めて聴くはずなのに私が一緒に歌っていたんです。それが長兄の口笛の曲でした。
神立:どんな曲ですか。
湯川:調べるとハリー・ジェームス・オーケストラの『Sleepy Lagoon』という曲だとわかって。アメリカでは1941年から翌年、つまり真珠湾攻撃の頃に流行った曲を、兄は口笛で吹けるほど聴いていたことになるんですね。その驚きが、私の音楽に対する初めての大きな経験になったんです。
神立:戦前は日本の若者もアメリカ文化に影響されていたようですよね。
湯川:長兄が残した日記には、赤紙が届く1か月前まで外国映画を頻繁に観ていたと記録されていて、主演俳優の名前とか、寸評まで書かれていました。茶封筒に入った洋楽レコードもいくつか残っていました。