ある時、あるところに、ある家族がいましたという、たったそれだけともいえる物語に、これほど心躍り、胸がつまるのはなぜだろう。
舞台は戦中~戦後にかけての東京・小金井界隈。1940年の幻の東京五輪出場をめざすも故障に泣き、日本女子体育専門学校をやめて小金井中央国民学校の代用教員になった元槍投げ選手〈山岡悌子〉が、下宿先の人々や個性豊かな教え子に恵まれ、やがて思いがけない形で妻となり、母となるまでを、木内昇氏の最新小説『かたばみ』は描く。
かたばみとは繁殖力が強く、「家が絶えない」として家紋にも用いられた、〈カタバミ科の多年草〉のこと。が、悌子が下宿先の女将の実兄〈中津川権蔵〉と後に築く家庭は、よくある幸せ家族とは何かが大きく違う。
そもそも物語は、実家も近く、早大野球部から社会人に進んだ〈神代清一〉とてっきり結ばれるつもりでいた彼女のしょっぱすぎる失恋から始まり、置かれた時代は過酷でも、常に〈一所懸命〉な悌子にかかると何かが明るく痛快で、断然応援したくなるのである。
「私は特に『明るい小説にしよう』とも思ってなくて、その点は悌子の性格様々という感じなんですよね。着想としては養子縁組がまだ珍しくなかった時代のステップファミリーの話を書こうと。そしてせっかく戦中戦後を舞台にするなら、学校教育の変化も書きたいし、当時の二大娯楽だった野球とラジオの話も書いてみたかったんです」
身長5尺7寸(172cm)と体格がよく、周囲の勧めで陸上を始めた悌子を始め、内面はむしろ何も決めずに書き出すことが多いという。
「私はそれより『その体格ならこう動くだろうな』という動きや運動神経を重視していて、その行動が後々内面を形作るといいますか。この悌子も考えが一貫しているようですぐブレるし、感情表現も独特で、善なるゆえにフラフラする。でも責任は必ず自分でとる彼女の行動を追うとどこかしら笑えてきて、暗くなりようがなかったんです(笑)」
そんな悌子が故郷岐阜を出たのも全ては清一のため。周囲に〈男女〉と蔑まれた悌子の肩の強さや人間性を唯一正当に評価してくれた彼がいる限り、自分も東京にいようと決めたのだ。が、元々は浅草で食堂を営んでいた〈木村朝子〉が夫の出征中に始めた惣菜店に下宿し、学校にも慣れた秋のこと。清一に呼び出された悌子は彼が自ら入隊を志願し、既に華奢で美形な〈水田雪代〉と祝言も上げたと聞き、〈あんなひ弱な娘と清ちゃんが?〉と絶望する。
「このガッカリ感は好きな野球選手に結婚された女子ならわかると思う。ああ、結局は細くてかわいい子にいくんだなっていう(笑)」
一方長引く戦争の行方に悌子の職場も日々翻弄され、子供達の心まで殺伐としていくのが彼女には耐えがたかった。そんな中、悌子と担任の〈吉川先生〉は来る勤労動員に備え、6年生と近隣の中島飛行機を見学に行くことに。そして見学を終え、学校へ戻ろうとした矢先、B29の初空襲に遭遇。教え子の一人が命を落とし、悌子は一生消えない後悔を抱えることになるのだ。