【書評】『自称詞〈僕〉の歴史』/友田健太郎・著/河出新書/1078円
【評者】平山周吉(雑文家)
ふだんの会話では無意識で使っている「僕」という一人称だが、文章を書く時には、私には抵抗がある。「僕」ではしっくりせず、「私」を使う。なぜなのか。気にはなっていたが、深くは考えずに、やり過ごしていた。
友田健太郎の『自称詞〈僕〉の歴史』は、今では当たり前に使われている「僕」の来歴を、古代から現在まで、徹底的に調べ上げた本だ。身近な、たった一語に目を凝らすだけで、日本史がいままでとは違って見えてくる。
私は「俺」を使ったことがないが、「俺」は「江戸時代には階層や性別を超えて、最も一般的に使われていた自称詞だった」という。「私」は「江戸時代には商人などが相手を非常に尊敬するニュアンス」だったが、現在では「丁寧な言葉として、男女ともに広く使われ」る。「俺」「私」が国産の自称詞なのに対し、「僕」は「我」「余」「小生」「吾輩」「拙者」などと同じく中国由来。その中で話し言葉にもなり、圧倒的に普及してきた。
古代に輸入された「僕」は、中世には一旦消えるが、元禄時代に学問を通じた交流の場で復活する。やがては中国嫌いの本居宣長や、俳人の与謝蕪村も書簡で「僕」を使うようになる。蛮社の獄で捕まった渡辺崋山は、自決の直前に、「僕は裏庭に咲く目立たない花だ」と書いた手紙を遺した。
本書が一番注目するのは、幕末維新のエネルギーを生んだ吉田松陰とその門下生たちの「僕」の愛用だ。幕末には「僕」の使用は武士の間では一般的になっていたが、ことさら「僕」を好んだのが松陰だった。
現存する松陰の書簡八百四十八通のうち、四割以上で「僕」を用いていた。松陰の書簡を分析し、著者は「僕」が気やすい相手に対して使う「素顔の自称詞」という側面と、「同志」ネットワークを構築する上で、「僕」を戦略的に使用した側面を導き出す。
「僕」が抱え持つ視点と問題の豊饒は本書で明らかになった。著者は松陰と並べて、「僕」の使用で周囲に影響を及ぼした二人の名を挙げる。大杉栄と村上春樹だ。
※週刊ポスト2023年9月1日号