「ぼくの中では花巻東以外にはあり得なかったです」──菊池雄星に憧れ進路を決めた心境をこう語っていた大谷翔平。しかし、母校の校歌を甲子園で歌うことは叶わなかった。高校時代の苦い経験は大谷をどのように成長させたのか。
宮沢賢治の生誕地や「わんこそば」発祥の地として知られる岩手県中西部の都市・花巻市。花巻空港から車で15分ほどの場所に、大谷翔平(29才)が高校時代を過ごした花巻東高校は位置する。
慶應高校の優勝で幕を閉じた今夏の甲子園。惜しくも準々決勝で敗退したが、大谷の母校・花巻東高校の健闘も記憶に新しい。大谷が花巻東に入学したのは2010年の春。当時のあだ名は、細長いチョコレート菓子に由来する「トッポ」だった。
「入学時に身長は185cmを超えていたけど、体重は65kgくらい。選手としてはガリガリでそう名付けられましたね。“増量組”に指名され、余ったお弁当を2個、3個と食べさせられていました。
翔平くんの姉と結婚し現在は義理の兄になっている当時の担任が、手足が長すぎて既製品が体に合わない翔平くんを見かねて、机と椅子の脚を7cm伸ばしたものを特注したことも知られています」(学校関係者)
中学時代から県内では注目の選手だった大谷は、学業も優秀だった。
「全教科の平均で85点はとっていて、成績上位者として表彰されたこともあります。『授業中はあんまり興味なさそうに聞いているんだけど、テストでは90点近い点数をとるんだよな(笑い)』と話していた先生がいたのを覚えています。当然、校内では女子の注目の的で、歩いているだけでキャーキャーと黄色い声が上がっていました。でも、野球部は恋愛禁止だったし、翔平くんに彼女はいなかったと思いますよ」(前出・学校関係者)
2年生に上がる直前の2011年3月、東日本大震災が地元・岩手を襲う。
「チームメートの中には実家が津波に流されるなどの被害を受けた仲間もいた。翔平くんは“岩手、東北を背負って戦う”と闘志を燃やし、室内練習場に震災の記事を貼って練習に励んでいました」(前出・学校関係者)
だが、そんな大谷も、甲子園では思うような活躍はできなかった。初めて出場した2年夏は初戦で敗退。3年春のセンバツでは、初戦で藤浪晋太郎投手(現オリオールズ)擁する優勝候補・大阪桐蔭高校と対戦。大谷が打ち込まれ、2対9で惨敗した。3年夏は県大会の決勝で敗れ、甲子園の土を踏むことさえ叶わなかった。
卒業後はメジャー挑戦を表明したが、土壇場で日本でのプロ入りを決断。注目されながら、聖地では輝けなかった高校時代から一転、多くの関係者が「無理だ」と口を揃えた二刀流を貫き、メジャーリーグへと飛躍していった。