ライフ

【書評】米日両国の現代史を濃密に生きた文学者、ドナルド・キーン 翻訳者が著した評伝

『私説 ドナルド・キーン』/角地幸男・著

『私説 ドナルド・キーン』/角地幸男・著

【書評】『私説 ドナルド・キーン』/角地幸男・著/文藝春秋/2310円
【評者】関川夏央(作家)

 一九四〇年秋であった。十八歳のコロンビア大生ドナルド・キーンは、ニューヨークのタイムズスクエアで投げ売りされていた外国小説を買った。二度飛び級、十六歳で大学に入ったが両親は離婚、奨学金だけが頼りの彼が四十九セントで買ったのは、アーサー・ウエーリ訳『源氏物語』であった。そして彼は「はかなさ」を基調とする世界最古の小説に魅せられた。

 四二年、米海軍日本語学校に入学したのも、経済面の保証と日本語への興味ゆえだった。十一ヵ月で文語体になじみ、草書も読めるようになった彼の最初の仕事は、『源氏物語』とは正反対、ガダルカナルで死んだ日本兵の乾いた血がまだ匂う日記を読むことだった。

 ケンブリッジ大を経て京都大学に留学したのは五三年夏、三十一歳だった。同宿の京大助教授・永井道雄と親しみ、永井の紹介で中央公論社の社長・嶋中鵬二に会った。嶋中はキーンを三島由紀夫に会わせた。広がる人間関係は、キーンの少年のような人柄、尋常ではない「勉強」への熱意がもたらした。以来六十五年半、キーンの膨大な仕事は外国人に日本文学を知らせたのみならず、「日本人自身にとっても、はじめて自分の顔を直視した驚きに似た衝撃」(安部公房)だったのである。

 しかるに、国文の専門家たちは「特権的外国人」の仕事としてキーンを徹底して敬遠・無視した。それは差別というより、専門が細分化されすぎた結果、『古事記』から現代文学に至るキーンの該博な知識に太刀打ちできなかったためでもあろう。

 ほぼ半世紀前にキーンと知り合った著者・角地幸男は、一九九〇年代から最晩年までのキーンの作品の翻訳という難事業に従事した。彼はこの本で、米日両国の現代史を濃密に生きたにもかかわらず空白であった文学者の評伝を書こうと試みたのである。ドナルド・キーンは二〇一九年、九十六歳で日本国籍の人として没した。墓は東京・北区西ヶ原の真言宗の寺にある。

※週刊ポスト2023年9月8日号

関連記事

トピックス

田村瑠奈被告(右)と父の修被告
「ハイターで指紋は消せる?」田村瑠奈被告(30)の父が公判で語った「漂白剤の使い道」【ススキノ首切断事件裁判】
週刊ポスト
指定暴力団六代目山口組の司忍組長(時事通信フォト)
暴力団幹部たちが熱心に取り組む若見えの工夫 ネイルサロンに通い、にんにく注射も 「プラセンタ注射はみんな打ってる」
NEWSポストセブン
10月には10年ぶりとなるオリジナルアルバム『Precious Days』をリリースした竹内まりや
《結婚42周年》竹内まりや、夫・山下達郎とのあまりにも深い絆 「結婚は今世で12回目」夫婦の結びつきは“魂レベル”
女性セブン
騒動の発端となっているイギリス人女性(SNSより)
「父親と息子の両方と…」「タダで行為できます」で世界を騒がすイギリス人女性(25)の生い立ち 過激配信をサポートする元夫の存在
NEWSポストセブン
宇宙飛行士で京都大学大学院総合生存学館(思修館)特定教授の土井隆雄氏
《アポロ11号月面着陸から55年》宇宙飛行士・土井隆雄さんが語る、人類が再び月を目指す意義 「地球の外に活動領域を広げていくことは、人類の進歩にとって必然」
週刊ポスト
九州場所
九州場所「溜席の着物美人」の次は「浴衣地ワンピース女性」が続々 「四股名の入った服は応援タオル代わりになる」と桟敷で他にも2人が着用していた
NEWSポストセブン
初のフレンチコースの販売を開始した「ガスト」
《ガスト初のフレンチコースを販売》匿名の現役スタッフが明かした現場の混乱「やることは増えたが、時給は変わらず…」「土日の混雑が心配」
NEWSポストセブン
希代の名優として親しまれた西田敏行さん
《故郷・福島に埋葬してほしい》西田敏行さん、体に埋め込んでいた金属だらけだった遺骨 満身創痍でも堅忍して追求し続けた俳優業
女性セブン
佐々木朗希のメジャーでの活躍は待ち遠しいが……(時事通信フォト)
【ロッテファンの怒りに球団が回答】佐々木朗希のポスティング発表翌日の“自動課金”物議を醸す「ファンクラブ継続更新締め切り」騒動にどう答えるか
NEWSポストセブン
越前谷真将(まさよし)容疑者(49)
《“顔面ヘビタトゥー男”がコンビニ強盗》「割と優しい」「穏やかな人」近隣住民が明かした容疑者の素顔、朝の挨拶は「おあようございあす」
NEWSポストセブン
歌舞伎俳優の中村芝翫と嫁の三田寛子(右写真/産経新聞社)
《中村芝翫が約900日ぶりに自宅に戻る》三田寛子、“夫の愛人”とのバトルに勝利 芝翫は“未練たらたら”でも松竹の激怒が決定打に
女性セブン
天皇陛下にとって百合子さまは大叔母にあたる(2024年11月、東京・港区。撮影/JMPA)
三笠宮妃百合子さまのご逝去に心を痛められ…天皇皇后両陛下と愛子さまが三笠宮邸を弔問
女性セブン