【書評】『それは誠』/乗代雄介・著/文藝春秋/1870円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
今回の芥川賞候補作である。語り手の「佐田誠」は高校生。生まれてすぐ両親は離婚したので、父を知らず、母も三歳で他界したという。この際に誠を引き取ろうとしてくれた叔父さんがいた。誠は修学旅行の最中に長年会っていない叔父さんにこっそり会いにいこうとする。
百万人が泣く青春小説が書けそうな設定だが、誠がモノローグ文体で綴る回想録は、男女七人から成る修学旅行班の、ときに素晴らしくしょうもない出来事や脱線だ。わかりやすい「ドラマ」や「プロット」があるわけでもない。エピソードの数は多いが、それが連結していく本筋が見えない、かもしれない。
だからこそ、私はこの行き惑う言葉の叢れを一語一句、楽しんだ。そもそもモノローグの醍醐味は正確で順序だった記録性にあるわけではなく、むしろ「芯」を食わない非効率性にあると私は思う。
誠自身が「書吃音(かきつおん)」という造語を使っているが、どもること、言いよどむこと、一直線的に進まないこと。「例の居心地悪い自然な導入ってやつ」を懸命に避けようとする本作の出だしなど、ディケンズのようなヴィクトリア朝小説の古典的導入を蹴飛ばす『ライ麦畑でつかまえて』の冒頭を意識しているのが窺える。
架空のお話を物語る小説というものはどこか白々しい。誰が、どうして、誰に向かって書いているのか? という疑問が頭をもたげたら、もう信憑性を失ってしまう。乗代はこうしたオーサーシップの問題にごくセンシティヴな書き手であり、彼の作品の成立原理には、「書く」という行為に内在する時間的な遡行と、情報の遅延の不可避性がつねにあるのだ。
終盤、最高に大事な質問を前にして、またもや会話の軸は逸れる。「僕は自分の知らないところで何かが起こってるのだけがうれしいんだ。それでずっと一人でも平気なんだ」と言いつつ、仲間との時間を指の動き一つ、語尾の一つに至るまで書き留める、誠のその熱を愛と呼ぶんじゃないだろうか?
※週刊ポスト2023年9月15・22日号