阪神タイガースが18年ぶりのリーグ制覇を決めた。チームを率いた岡田彰布監督は昨年10月、同じ早大OBとして親交のある阪急阪神HDの角和夫会長から、チームの再生を託された。岡田氏は2004~2008年にも阪神の監督を務め、2005年にはリーグ優勝を果たしている。そうした手腕が評価されての再登板だったわけだが、岡田氏が指導者として歩むキャリアは、全く別のかたちになっていた可能性もあるのだという。
1979年にドラフト1位で阪神に入団した岡田氏は、1980年から阪神で14年間プレーした。1993年オフに阪神から自由契約となると、仰木彬監督が率いるオリックスに入団。2年間プレーした後、1995年に現役を引退した。オリックスの二軍助監督兼打撃コーチを2年間務めた後、1998年に二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰している。
翌1999年には二軍監督に昇格。2003年から一軍内野守備コーチを務めると、同年オフに健康問題で勇退した星野仙一監督の後任として阪神の監督に就任。監督1年目の2004年は4位に沈んだが、2005年にリーグ優勝している。だが、「2001年のオフに、岡田は阪神を離れる可能性があったんです」と明かすのは、2001年から2004年まで阪神の球団社長を務めた野崎勝義氏だ。
「1998年に岡田が阪神に二軍助監督として復帰したのは、吉田義男監督(当時)が三好(一彦社長)に頼み込んで実現したものでした。同年オフにはノムさん(野村克也監督)が阪神の監督に就任したのですが、一軍と二軍の連携がうまくいかなかった。ノムさんが二軍監督の岡田の意見をあまり聞かなかったこともあって、岡田もノムさんのところに報告に行かないようになっていた。
そのノムさんが2001年の年末にサッチー(夫人の野村沙知代さん)の脱税問題で退任することになった時、岡田は久万(俊二郎オーナー)さんとの日頃の会話から自分が監督をやるものだと思っていたのですが、再び外部招聘で星野(仙一)がチームを率いることに決まった」
ようやく一軍監督の順番が回ってきたと思っていた岡田氏にとって、急転直下、星野監督に決まったのは当然、面白くなかったはずだ。そうしたなか、岡田氏が阪神を離れるプランが存在したのだと野崎氏は続ける。
「久万オーナーは岡田を可愛がっており、なんとか阪神の監督にしたいという思いもあった。そこで久万さんは星野に『岡田を育ててほしい』と注文したんです。それに対して星野は、“監督をするためには、他人の釜の飯を食べて勉強したほうがいい”として、自身も経験して勉強になったというNHKの解説者として、岡田を転出する案が固まった」
態度を豹変させた久万オーナー
2001年オフ、中日監督の退任が決まっていた星野氏は、NHKの解説者に復帰することが内定していたが、急遽、阪神の監督に招かれた。それにより空席となったNHKの解説者に岡田氏を据えようとしたのだ。野崎氏が言う。